怠け者の社会学

第4回 勤勉倫理の論理

■前回のまとめ

 前回の終わりに「勤勉であることと段取りの曖昧さを解決する責任が結びつけられる際の具体的なやりとりに注目し、私たちが何に絡めとられているかを明らかにする」というようなことを述べました。自分で言っておいて何だかよくわからないので整理してみようと思います。

 「勤勉であることと段取りの曖昧さを解決する責任が結びつけられる」というのはどういうことでしょうか。「段取りが曖昧であるために生じる問題をフォローする責任は労働者側に押し付けられていて、この責任を果たそうとしない労働者は怠け者として非難されても仕方がない」ということでしょうか。そもそも段取りを曖昧にしてしまっている使用者側の責任は問われないことになっています。一方的に責任を押し付けられているこがそもそもおかしなことなのに、このおかしなことを無理やり成立させるために勤勉倫理がねじ込まれているということでしょうか。

 それでは、今度は段取りの曖昧さの側からではなく、勤勉倫理の側から物事を見ていきましょう。片方への責任の押しつけをよしとする権力作用とは別のところで、勤勉倫理は勤勉倫理なりの論理を持っているはずです。ここでは、労働者の中の勤勉倫理の論理を見ていきたいと思います。

■労働者にとって真面目に働くとどういうことか

 「勤勉である」というのはどうにもお硬い言い方なので、「真面目に働く」とはどういうことなのかを考えてみます。

 労働者たちが適度に手を抜いて働いていることについては、これまでもよく語られてきました。まず、一般的な「怠け者」イメージがありますから、語られるのは手を抜くことの肯定的側面、積極的ないし戦略的な側面でした。

 例えば、片付け仕事は作業の区切りがないので、一生懸命働けば働くほど仕事量が増えてへとへとになってしまいます。大きな現場などでは、細々とした雑用をやらされることが多く、一つ雑用をこなしたらまた一つと終業時間まで際限なく働かされることになりかねません。がんばりすぎて倒れてしまっては元も子もありませんから、自分なりのペース配分を考えてある程度手を抜くことは必要です。

 また、他の労働者のことも考えて「働きすぎない」ことも重要です。水野阿修羅さんの『その日ぐらしはパラダイス』(ビレッジプレス、1997年)という本では、高齢の労働者のことを考えて、若い労働者は働きぶりをセーブする必要があることが指摘されています。若くて体力のある労働者が働きすぎると、結果として付いて来れない高齢の労働者が切り捨てられることにつながるからです。もっとも、こういったことは土工の手元仕事以外でもある話だと思います。

 しかし、僕が初めて飯場で働いた時に強く感じたのは「この人たちはなんてちゃんと働く人たちなんだろう」ということでした。彼らはものすごくよく気が付くし、積極的に動く人たちでした。それはとても好印象で、僕も自然と彼らを見倣うようになりました。

 特徴的なのは初心者のフォローという側面です。「わからないことは一緒に行く人が教えてくれる」とは聞いていたのですが、現場では彼らは本当に親切に教えてくれるし、いろいろ助けてもらったことを僕は覚えています。誰かのフォローをしようと思ったら自分はその誰かより率先して動かなければなりません。作業の過程でどのようなことが課題となるかを予測し、初心者がそれに対応できるようなフォローを提供することが必要となります。初心者ができないことを自分がやって、初心者でもできるような役割を作り出さねばなりません。怠けていては他人のフォローなどできないのです。

■なぜ初心者のフォローをするのか

 では、彼らはなぜ初心者のフォローをするのでしょうか。これにはいろいろ理由が考えられます。手元仕事にはいろんな仕事があって、経験豊富な労働者であっても未知の仕事に出くわすことがあります。この意味で誰もが潜在的に初心者である部分を持っていて、分からないこと・できないことはフォローし合うべきだという規範があるのだと考えられます。

 別の理由も考えられます。飯場の労働者は必ずしも「いつも一緒に働く仲間」ではありません。飯場内の労働者の入れ替わりは激しいし、〈現金〉としてその日一日限り一緒に働くだけという場合もあります。ほとんど他人のようなものです。しかし、使用者はそのような飯場労働者の事情は知ったことでありません。使用者にとっては、飯場の労働者たちは「同じ会社」の労働者たちで、「同じ会社」の人間の面倒(尻拭い)は同じ会社の人間が見るべきだと考えるかもしれません。下請けとして仕事を頼んでいる以上、会社として責任を持って仕事をこなせと要求する発想は分からないでもありません。

 それに加えて、段取りの曖昧さをフォローする責任を押し付けられている以上、そのようにせざるをえないということも考えられるでしょう。しかし、そのような消極的な理由だけで彼らがあれだけ機転を利かせ、きびきびと働くとは僕にはとても思えません。ここには何か別に積極的な理由があるのではないでしょうか。言うなれば、彼らを労働へと駆り立てるモチベーションの存在です。

 前回、僕は「経験豊富な労働者は自分の判断を優先してことをうまく運ばせようと企てる」と書きました。そして「これは単に作業を効率的に遂行できるという目的合理的な行為ではなく、自分で判断し自分で行動することから得られる満足感を重視したもの」だと説明しました。初心者へのフォローのモチベーションはこの辺りと関係しているのではないかと推測されます。

■有能さへの志向

 前の「日雇い労働者のつくりかた」の第4回「道具を応用する」のところで触れたように、工夫するということが建設現場では重要な実践となっています(「実践」というのは、「当たり前のやらなければならないこと」というような意味です)。まとめの部分で僕はこのように書いています。

 建設現場の労働者の一員である日雇い労働者は応用力を持たねばなりません。この応用力はどんな場面でも発揮しなければなりません。「応用力がある」ことに証明書や免許証はありません。常に小さな応用を試み、試みられた小さな応用の結果によって絶え間なく自身の「応用力」を他人に見せて証明しなければならないのです。自分の体一つを頼みに生き抜いていくとはそういうことでもあるんだと思います。(「日雇い労働者のつくりかた」第4回より

 日雇い労働者だけがこれを求められるわけではなく、建設現場全体の雰囲気としてそうなのだと思います。いくつか例をあげてみましょう。

 金網の張られた法面(のりめん、斜面のこと)の上でサンダーを使って作業している人まで電気を渡さねばなりませんでした。法面の下までドラムの延長コードを延ばし、さらに延長コードでサンダーとドラムを繋ぐのですが、法面が急傾斜で高いので昇ることができません。法面の上まで延長コードを持っていって垂らせばいいのかもしれませんが、法面の上まで行くにはかなりの遠回りをしなければなりません。

 どうしたものかと思っていると、法面の上の人はサンダーのコードを垂らし、延長コードをつなぐように指示しました。延長コードをつないだら、そのままコードを引き上げればよかったのです。分かってしまえば大したことではないのですが、もしこのことに誰も気づかなければ遠回りして法面の上まで行って、10分は時間を無駄にしていたし面倒な思いをしたでしょう。予測不能な事態、小さなアクシデントは日常茶飯事ですから、何とか工夫して乗り切らないと仕事が進みません。

 また「頭を使って楽をする」ということも重要です。コンクリートやモルタルを作る電動ミキサーというものがあります。深いたらいのような器の底にファンが付いていて、このファンが回転してセメントや砂、水を混ぜるようになっています。このファンは取り外すとずっしりと重いものです。

 電動ミキサーを使い終える頃にはファンにはセメントや砂が固まってびっしり付いています。使用後にこれをそぎ落とさねばなりません。重いので扱いづらく、なかなかうまくいきません。僕が戸惑っているのを見た会社の人は、土嚢袋にやりやすいような形で寄っかからせて鉄筋の端切れで叩いて落とせばいいと教えてくれました。土のう袋も鉄筋の端切れもそこらにころがっているものでした。彼には「大学院でも思いつかんか」と皮肉っぽく言われました(その後、「経験の差やな」とフォローはしてくれましたが)。

 現場では「応用が利かないことはぶざま」なことなのです。ここで紹介した例は大したことのない工夫で、単に僕がバカなだけなんじゃないかと思われるかもしれません。もちろん、僕自身の問題もあるのですが、ちょっとした工夫が仕事を楽にすることは確かで、この工夫が大したことのないことなだけに、ちょっとした工夫ができないことの間抜けさが際立ってしまうことがわかります。

 裏返せば、うまい工夫を思いつくことはその人の有能さとして評価されることになります。これには使用者も労働者も関係がありません。ガラ出し(コンクリートの破砕片を運び出す作業)をする際、使用者に指示されて最初みんな手で拾い集めてトラックの荷台に載せていたのですが、一人の労働者がいったん土のう袋に入れてから運ぶことを提案し、格段に作業は楽になりました。このような場合、よりよい方法を思いついた労働者は漫然とした指示しか出せなかった使用者よりも優れた判断を示したことになります。有能さを発揮することは所与の上下関係を一時的にではあれ引っくり返す効果を持つわけです。

 ここには、有能さを発揮しなければバカにされる状況があると同時に、有能さを発揮することが満足感をもたらすという構造がはあります。有能さを発揮するためには、全体の足を引っ張りかねない初心者をうまく使うことも条件の一つとなります。また、初心者に対してうまい工夫を伝授することは感謝や尊敬を受け、労働者に満足感をもたらすこととなります。このような「有能さへの志向」とでも言うようなものが労働者のモチベーションの源泉となっているわけです。

■労働者にとっての勤勉倫理

 さて、労働者にとっての勤勉倫理の論理を問うのがこの回の目的でした。「怠け者の社会学」では労働者が真面目に働く理由を、(1)有能さに駆り立てられる状況があること、(2)労働者自身の満足のための2点にあることを主張しています。一般的に、労働者が真面目に働く理由にはどのようなものがあると考えられているのでしょうか。試しに「勤勉」を『社会学事典』(弘文堂、2001年)で引いてみると、「勤勉」は載っていませんでしたが、その近くに「勤労意欲(⇒モラール)」という見出しが見つかりました。「モラール」の項を以下にその一部を引用してみます。

 個人が、その属する集団の共通目標の実現のために積極的に努力しようとする態度。産業社会学において、客観的職場条件と生産性を媒介するものとして重要視された。モラールを構成するものとしては、仕事への愛着の度合、仕事の意義の自覚の度合、集団への帰属意識の高さなどと考えられる。(874-875)

 モラールを構成する要素として想定されている「集団への帰属意識の高さ」は飯場労働者の場合にはあまりあてはまりそうにありません。ついでに手持ちのもう一冊の『社会学小辞典』(有斐閣、2002年)で同じ項目を引いてみます。

 勤労意欲とか志気、やる気などと訳されるが、集団に対する帰属感、職務に対する満足感、仕事に対する積極的意志、仕事の意義の自覚、集団への団結力などがその内容として含まれる。ただしそれは、個人にとってのものというよりは、集団ないし組織における人間関係に関する事柄として使われることが多い。したがって、集団(ないし組織)の成員が、集団の成員であることに満足と誇りとをもって結束し、集団の共通目標の達成に向かって積極的に努力しようとしている態度をさすと考えてよい。(595-596)

 考えてみれば「勤労意欲」にしても「勤勉倫理」にしても管理者側の視点から見た言葉なので、管理者が労働者を評価する「勤労」や「勤勉」の基準がなければこの議論は成り立たないような気がします。よって、この回で論じたのは、管理者(使用者)が設定した基準に対し、表向き適応しようとする態度の裏側にあるものを検討した結果、それは仕事そのものから得られる満足感のようなものだということになります。

 先ほど「『集団への帰属意識の高さ』は飯場労働者の場合にはあまりあてはまりそうにない」と書きましたが、初心者へのフォローの中には「同じ日雇いで働く者同士」という意識はあるように思います。

■生活の中の勤勉倫理

 ところで、これまで見てきたのは労働の中の勤勉さについてでした。考えてみれば、労働をとりまく状況、例えば仕事に出続ける、仕事を休まないということにも勤勉さの評価は含まれているはずです。つまり、生活の中にも労働を意識した勤勉倫理が含まれていると考えられます。そこで、次回では生活の中の勤勉倫理について考えてみたいと思います。(2009年9月11日(金)更新)



第5回 生活の中の勤勉倫理

別に読まなくていい今回の独り言

1)手元労働者に対する「怠け者イメージ」というのは、結局その雇用形態に根ざしているのだろうか?

2)「怠け者」を作るのは集団の存立を脅かすものを切り捨てるためのもの?