怠け者の社会学

第5回 生活の中の勤勉倫理

■倫理とは何だ?

 倫理というのは本来、権力関係の有無にかかわりなく絶対的な価値を追究するものなのかなと思います。しかし、この連載では「勤勉」を権力関係の中で評価されるものと捉えていて、だとすると「勤勉倫理」という言葉自体がおかしなものになってしまいます。

 あるいは、倫理というものはその倫理が成り立つ集団の枠を区切った上で語りうるものだと考えるべきかもしれません。倫理というものが社会とか集団を意識して生まれてくるものだということはおそらく間違いないと思います。となれば、問題はその倫理がどの集団を前提として語られるものなのかを見極めていくことです。

■どのように暮らすべきか

 さんざん倫理という言葉を使ってきておいて今さら倫理とは何かもないですが、とにかく生活の中の勤勉倫理です。生活の中の勤勉倫理というのを端的に言えば、「労働のために生活を律する必要性」ということになろうかと思います(これ端的に言ってるか?)。

 「労働のために生活を律する必要性」というふうに考えると、飯場労働者の場合に真っ先に思いつくのが「仕事に出続けること」です。

 日雇い労働は「その日ぐらし」で、その日仕事に行くかどうかはその日の気分なり懐具合で決めればいいというイメージを持たれています。ある労働者は「この稼業は働いてなんぼやで。働いても働かんでもメシ代やらで1日3,000円はとんでくんやから」と言っていました。この日の仕事中、彼は日雇い稼業初心者と見える僕に対し、「この稼業」についてのレクチャーを施してくれました。彼は次のようにも言っていました。

 「この稼業やっとると先のこと考えんようになる」という。5万円残ったら少しためとけばいいのに全部なくなるまで働かない。広島で仕事で一ヶ月くらい働いて30万円手元に残った。同じ会社の大阪の仕事に行くために3日間待機していた。その待機中の2日目にギャンブルでみんな擦ってしまって社長に5万借りたというエピソードを語ってくれた。その日ぐらし、起きて金がゼロでもその日の朝仕事行けばいいのだからという。(2004年2月12日(木)のフィールドノート)
 「この稼業やっとるとセコくなる」という。人の嫌な面を見るのだという。1,000円で裏切ったり、裏切られたりする。トンコについて「自分の世間せまくしとるだけや」と言う。仕事中に逃げたり、朝仕事前に逃げたりする者もいる。〈現金〉数人分の日当を預けられていた〈契約〉の人がその日仕事中にいなくなったというエピソードを語る。「飯場なんかいくらでもある。嫌だったら替わればええだけや」。(2004年2月12日(木)のフィールドノート)

 「30万円稼いだのに次の仕事までのわずかな待機期間のうちに擦ってしまい、借金をする羽目になった」というエピソードは、いかにも「その日ぐらし」らしいエピソードです。また目先の小さな利益に目がくらんでしまう者の話も何となくシンボリックではあります。これらをどのように解釈するべきなのでしょうか。

 その日ぐらしではあるものの、生活しているだけでお金は着実に減っていく。だから仕事に行くことを遅かれ早かれ最後には求められると彼は言いたいのでしょうか。彼の語りからはその日ぐらしが気楽なものなのかどうかはよくわかりません。ただ、「お金が残った時に貯蓄に回すべきだ」という自己規制は弱いようです。これは日雇い稼業独特の心性なのでしょうか。

 僕には推測するのみですが、いつ頃にこれだけのお金がいるという見通しでもなければなかなか貯金はできないものではないでしょうか。あるいは、将来的にお金がかかるようになるだろうと予測される場合や、将来の食い扶持に不安のある場合などには貯蓄に意識が向かうはずです。

 「将来の食い扶持に不安のある場合」というのは日雇い稼業にもあてはまるように思います。日雇いの仕事は、景気の動向にもろに影響を受け、増減が激しいものです。しかし、「しばらくは仕事は続くだろう(なくならないだろう)」「今の時期はまだまだ仕事の多い時期だ」と判断される時には、積極的に貯蓄する必要性が感じられないかもしれません。

 だからといって手持ちのお金を使い切ってしまうのはその人のだらしなさだと思われるかもしれません。しかし、ここが給料日があるような仕事とは違うところです。毎日決まった仕事に行かなければならず、給料日にならなければ現金が手に入らない場合と違って、日雇い稼業では次の日仕事に行けば現金を手にすることができ、とりあえずしのげるわけです。生活の構造そのものが異なります。これらをひっくるめて「この稼業は働いてなんぼ」という言葉が出てくるのではないでしょうか。

 「この稼業やっとるとセコくなる」という言葉についても考えてみましょう。トンコをしたり預けられたお金を持ち逃げしたりということは、その集団に帰属する可能性を致命的に破壊するものだと言えます。しかし、彼も言うように「飯場なんかいくらでもある」のである集団(飯場やその日の現場)への帰属自体をそれほど重視する必要はないのでしょう。

 しかし、彼自身はこれを「嫌な面」であり「自分の世間を狭くしているだけ」だと言っています。飯場やその日の現場に何らかの不満を抱えているがゆえにトンコをするのだろうが、不満があるならいくらでも別の選択肢があるのだから、その日は我慢してよそへ移ればいい。何も信頼関係を反故にする必要はないと彼は言いたいのでしょう。

■仕事に出続ける必要性

 日雇い労働者にとって「労働のために生活を律する必要性」は「仕事に出続けること」だと言いましたが、前の節では仕事に出る必要性を説いているものの、出続ける必要性を説いているわけではありません。仕事に出続ける必要性はこれとは違った場面で出てくるのです。

 ある飯場で一緒に働いた労働者は仕事に出た日と休みだった日とを「○勝○負」といって数えていました。これは仕事に出続けることに価値をおいていることを表すものではないでしょうか。とにかく仕事に出ることが必要だという前節の人と仕事に出続けることに価値をおくこの人との違いは何からもたらされるのでしょうか。

 実は前の人は〈現金〉で来た人で、後の人は飯場に入って働いている〈契約〉の人でした。ここでは前の人を水野さん、後の人を正木さんと呼ぶことにしましょう(この連載の事例における個人名や会社名は仮名です)。

 水野さんもかつては同じ飯場で働いていました。しかし、現在では寄せ場(釜ヶ崎)を生活拠点として、特定の飯場に居着かずに〈現金〉や〈契約〉で就労しているようでした。飯場に長くいる人たちの中では水野さんはかつての同僚であり、先輩格にあたるようでした。

 正木さんのように特定の飯場で働きつづけようとする人と水野さんのように仕事場を転々としようとする人とでは考え方が異なります。水野さんはある現場が気に入らないとなれば、そこでの就労はそれきりにして別の現場を探せばいいと考えることができます。しかし、正木さんの場合、飯場の契約先の現場が気に入らないからといって選り好みするわけにはいきません。この現場に行けと言われたら行かねばなりません。もちろん、「この現場には行きたくない」という希望を言うこともできますが、その分就労するチャンスが減ってしまいます。仕事が多い時期ならともかく、仕事が少ない時期ではそんなことは言っていられません。

 また、普段から積極的に働こうとしているかどうかという姿勢が飯場からチェックされています。飯場生活の長い労働者に「仕事がない時期だと一週間に(仕事があるのは)どれくらいなんですか?」と尋ねると、 「休む人間はいくらでも休む」「普段から休む人間は休まされる。ちゃんと出る人間はそれでもまあ仕事は出してもらえるよ」と言っていました。人によって異なるので一概に何日とは言えないのでしょう。

■固定層と流動層

 飯場の労働者をその就労パターンで「固定層」と「流動層」とでも言うような2つにわけることができます。固定層とは一つの飯場で働きつづけようとする労働者で、流動層は〈現金〉や飯場に入るとしても短期の〈契約〉で働こうとする労働者です。

 固定層は仕事の増減のある一年を通して同じ飯場で働くので、普段からできるだけ仕事に出ておかねばなりません。彼らは仕事が少ない時期に別の飯場や〈現金〉で稼ぎにいくというわけにはいきません。仕事が少ない時期にも仕事に出してもらえるような姿勢を示しておく必要があります。

 一方、流動層も飯場に入っている間は仕事に出続けようとします。飯場生活は縛りも多く、気遣いも必要となるので彼らは飯場で長く働きたいとは思っていません。できるだけ短期間に契約日数を働き切ってしまおうとします。飯場では短期間でまとまったお金を稼ぎたいと考えています。休めば飯代(食費や宿泊費)を引かれるだけなので、仕事には出続けたいのです。

 このように仕事に出続けたいという志向は同じでもそれぞれの事情は異なります。

 流動層の中に顕著に見られるのが「〈現金〉があるなら飯場にいる必要はない」という考え方です。流動層は〈現金〉でやってきた労働者に寄せ場の〈現金〉求人状況を聞きます。〈現金〉が増えはじめたら飯場を出たいのです。日祝日などには寄せ場の状況を確かめにいくこともあります。

 風呂で川端さんと話す。「昨日西成行ってきたぞ。忙しいで!」「仕事きついか?」と威勢良く話しかけられた。「早出おつかれさまです」とあいさつすると、「遊んどるようなもんや。今の現場はええで」そして、もう仕事あるんだからさっさと飯場を出ろみたいなノリで言われた。
 「今週いっぱいや。お前はいつ出るんや。10日はなっとるやろ?」。(2004年7月5日(月)のフィールドノート)

 「10日はなっとるやろ?」とは、この飯場は実働10日以上働けばいつでも清算してもらえる飯場だったので、「お前も飯場を出ようと思えばいつでも出られるのだろう?」という意味で言っています。〈現金〉があるなら飯場を出るのは当たり前だろうと言わんばかりの勢いです。

 流動層でも同じ飯場で働き続けた方がよいという意見もあります。それは「稼げる時に稼いで貯めておいた方がいい」という意味です。お盆や年末年始は仕事がないのでその前の時期にはお金を貯めておいた方がいいとか、人によっては日雇失業保険の支給に必要な日数は働いておこうという計算もあるのです。

 このように立場の違いによって考え方も違ってきます。この回では生活面について見てきたわけですが、労働面について見てみても、立場の違いによって考え方が異なるのではないかと思われます。そこで、次回は労働面に立ち返って、固定層と流動層の立場の違いに注目して勤勉倫理について考えてみましょう。(2009年9月14日(月)更新)



第6回 関係性の中へ

別に読まなくていい今回の独り言

1)怠け者と言われる筋合いはないし、怠けてもいないのに怠け者にされてしまう?

2)流動層には流動層なりの生活戦略があって、怠けているわけではないのに、怠けていると指弾されやすい?集団の中には怠け者が必要なのかな。怠け者を作り出さないと集団がうまく機能しない。集団が機能するとはどういう状態を言うのか。その集団は何のための集団か。

3)集団にはなぜ怠け者が必要なのか。怠け者が必要なものなのだとしたら、例え怠け者であったとしても排除するべきではないのではないだろうか。怠け者を排除してしまえば、次の怠け者候補は自分かもしれない。そうでなくても、その次の次の怠け者候補は自分かもしれない。誰かを排除することは自分の首を絞めることになる。集団そのものが息苦しいものになる。集団内の競争を過剰にしてしまう。……というようなまとめ方ができたらきれいにまとまりそうだけどなあ。