怠け者の社会学
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第6回 関係性の中へ ■生まれる違和感 イントロダクションのところで「『日雇労働者のつくりかた』の続編と言いつつも、今回対象とするのは『飯場労働者』ということになりそう」とか言っていた事情にようやくたどり着くことができました。 最初、日雇い労働者、飯場労働者は初心者に優しく、真面目に働く気持ちのいい人たちだと思っていました。しかし、長いこと働いているうちにちょっとずつ違和感を覚えるようになりました。 正直に言うと、この違和感を生み出したのは一人の労働者の存在が大きいように思います。この労働者――倉田さんは37歳のちょっと小柄な人で、その飯場での就労が3ヶ月になろうとしていました。倉田さんの第一印象は「飯場に入って日の浅い労働者に配慮ができ、仕事への責任感の強い人」というものでした。
ところが、一日一緒に働くことがあってから彼のイメージはガラッと変わりました。この現場は大型ショッピングモールの建築現場で、屋内にコンクリートを打つために軽トラの荷台にコンクリートを積んで運ばなければなりませんでした。僕はよく軽トラの運転手をやらされました。
僕の働きぶりを散々コケにする倉田さんは実は楽な仕事をしていたのだと途中で分かります。しかも、どうやらそうしていることに無頓着であることが仕事の後で明らかになります。同じようなシチュエーションで「わしはっきり言うやろ?でも普段は優しいで」と言っていたこともあります(「仕事中はきついから口が悪くなるけど、本当は気のいい人間なんだ」などと言われたら腹が立ちませんか?)。 確かに、親しみを込めて話しかけてくれたり、他の労働者に対しても何かと気を遣ってくれているふうなことはありましたが、そういったことは言行が一致していればこそ説得力を持つもので、仕事がちょっと立て込んでくると気遣いの欠片もなくなる倉田さんに言われても表面的なものとしか感じられませんでした。 ■怠け者がいる? それに加えて、倉田さんには「怠け者」を揶揄する発言が多く見られました。ある日、いっしょに働いている他の労働者について「あの2人ちょっと目離したらどこかいきよるから目光らせといて」と言われました。この言葉を額面通りに受け取ると、「あの2人は人の目を盗んでサボるから見張っていろ」ということです。 しかし、僕には彼らがそんな「怠け者」だとは思えませんでした。言われてみればその2人はちょっとくせがありました。1人はにぶい感じの人で、以前いっしょに働いた時にも姿が見えなくなったことがありました。しかし、それはサボろうとしてのことというよりは状況や段取りが飲み込めていないために、ついてこれていないだけに見えました。もう1人はあまり言うことを聞いてくれない人という印象がありました。指示を待つより自分で勝手に判断してしまう人で、すぐに文句を言ってくるので僕はこの人は苦手でした。まあ、彼らは「使いにくい」労働者で、「あまり気が利かない」という感じはあったわけですが、決して怠け者ではありませんでした。積極的に働こうとして下す判断や行動が的外れだったり、余計なことだったりするだけで。 倉田さん以外の事例も見てみましょう。小宮さんは同じ大型ショッピングモールの現場で「職長」といって飯場の労働者をとりまとめる役割を上の会社から与えられた飯場労働者の一人で、そのトップでもありました。シフトを調整したり、大勢を取りまとめる苦労のあるポジションで大変な役割であることは分かるのですが、横柄な態度をとるので裏では労働者に少なからず嫌われていました。 僕もその現場に長く出るようになって、小さな作業班のリーダー的な役割を任せられるようになっていました。リーダー的な役割を任せられると言っても、他の労働者との差は大してなくて、やっている仕事もあまり変わらないのですが、いくらかの裁量権があります。作業の段取りを決めたり、人員を割り当てたりといったことです。その作業内に限っては第一に判断する権利が与えられるとでも言ったらよいでしょうか(無視するやつも少なくないが)。 前述したように、この現場で僕ははもっぱら軽トラの運転をさせられていました。車が動かなければ仕事にならないわけですが、この日はガソリンが切れてしまい、倉庫のタンクにも予備がなくて給油車を呼んでもらいました。給油車がいつ来るか分からないし、広い現場のことなので見過ごさないように入場ゲート付近で待機しておく必要がありました。給油者が来るまでの所要時間はある程度見越してからゲートへ行ったのですが、それでも結果的に30分くらいは経ってしまいました。 その日の夜、飯場の食堂で他の労働者たちとしゃべっていた小宮さんに「昼に一時間サボっとったろ」と声をかけられました。サボっていたなどと心外だったので否定したのですが、どうやらガソリンを待っていた待ちぼうけの時間のことを言っているようでした。そう言われてもこれは不可抗力だし、サボっていたわけではないし、必要な時間でもあったわけです。もっとも、この時の小宮さんの声かけはからかいまじりのものであり、僕もようやく飯場の一員として認知されたということかなと軽く考えていました。 ところが、翌日には小宮さんは僕が「サボっていた」ことを既成の事実として公の場での判断材料として提出したのです。 朝礼前、プレハブで小宮さんが人員配置について打ち合わせしていた。「きつい仕事はローテーションでやれ」と小宮さんが中岡さんに言っていた。そばで打ち合わせに耳を傾けていた僕を指して小宮さんが「昨日1時間休んどったからコンクリにせえ」といきなり言うので驚いた。何なんだおっさん!?休んでいたわけでもないのに。あたかもサボったみたいに言いやがったと腹が立つ。小宮が出ていったあと、「言われたからコンクリせなあかんな(笑)」と中岡さんに笑われた。(2004年7月21日(水)のフィールドノート) 中岡さんも本気にはしていないようでしたが、公的な場でサボっていたように言われたということがショックでした。小宮さんも僕が必ずしもサボっていたのではないことは分かっていたはずです。しかし、この場で僕がサボっていたことは確定事項とされてしまったわけです。 ここで確認しておきたいのは、サボり、怠け者であるという名指しは正当な根拠(裏付け)を欠いたままで行われうるということです。 ■集団は怠け者を必要とする? こうなってくると怠け者というのは実際にその人がどうであるかということとは無関係に作りだされているのではないかと思えてきます。そして、これはどうも集団的な現象なのです。集団的な現象というのはつまり、飯場の労働者という集団を機能させるために「怠け者」を集団内に作り出す必要があるのではないかということです。 そこで次回は怠け者を作り出すことを集団的な現象として見ていきましょう。(2009年9月18日(金)更新) 別に読まなくていい今回の独り言 1)その人が実際に怠けているかどうかは実はどうでもいい。「怠け者がいる」あるいは「怠け者は批難される」という規範があることが重要。事実関係を追っていけば怠け者とは言いがたいような場合でも、怠け者と呼ばれてしまう。「怠け者である」という判断は主観的ないし一面的なもの。しかし、その一面的なものを成り立たせる共通基盤がある。集団の全ての構成員は「怠け者ではない」ことを目指さなければならない。自分自身が「怠け者ではない」ために、便宜的に怠け者の存在が必要となる。 2)何かよくわかんなくなってきた。何を書けばいいんだろう。 3)制度や契約に含まれている矛盾から目を背けさせるために「怠け者」というラベリングを誰かにしなければならないのかもしれない。矛盾から目を背けさせる――あるいは「怠け者」のラベリングを行うことは矛盾に気付くきっかけを捨て去ることになるという言い方もできるか。「怠け者」という言葉は妙に説得力を持ってしまう。固有の状況や文脈を飛び越えて説得力を持ってしまう。もしかすると矛盾から目を背けることはとりあえずの社会生活を送るために必要なことなのかもしれない。重要なのはそこで何を排除しているのかを意識することか。 3)違和感を覚えるようになったのは僕自身が初心者じゃなくなっていったということがあるのだろう。自分自身が初心者だと自覚している段階だと、先輩労働者の理不尽な言動も理不尽なものだと気付かないのではないだろうか。理不尽さ以前に、助けてくれることの方が重要だからだ。相手からしても初心者とそこそこの経験者では扱いが異なるではないか。人によって、仕事によって、状況によって、もう初心者ではないなと思いはじめていた僕は、再度経験の浅い者に位置づけられることがあった。本人の意識のレベルと、周りの認識のレベルとがあるかな。 |
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