怠け者の社会学

第8回 怠け者の効用

■なぜ「怠け者」なのか

 まず、なぜ「怠け者」というカテゴリーが用いられるのかを考えてみましょう。

 ここまで怠け者について論じてきて、実は怠け者が何なのかはよくわかりません。辞書的な定義を見ると「怠け者」は「いつも怠け(てい)る人」のことです。次に「怠ける」を見ると「それをする時間的余裕が有るのに、本来すべき事をしないで、むだに過ごす。サボる」とあります(『新明解国語辞典 第三版』)。

 独特の解釈で定評のある「新解さん」(三省堂の国語辞典)を用いていいのだろうかという気がするので、念のため他の辞書を参照してみると「なすべきことをしない。働かない。ずるける」とあります。

 どちらも「やるべきことをしない」といようなことが書かれています。第3回で見たように現場では往々にして「やるべきこと」がはっきりしていません。しかし、その「やるべきこと」を予測して常に気を利かせることを労働者は求められています。もしかすると、「『やるべきこと』を予測して常に気を利かせる」ことが飯場労働者の「やるべきこと」なのかもしれません。

 そして、第4回で見たように有能さに駆り立てられる労働者はこれを積極的に引き受けてしまいます。最初の段階でこの無茶な「やるべきこと」に対して異議申し立てをするならまだしも、いったん積極的に引き受けてしまった後ではいい訳がましくなってしまうので主張しづらくなります。労働者は付け込まれる隙を作ってしまっているわけです。

 「付け込まれる隙を作ってしまっている」と言うと労働者が悪いように聞こえますが、いくらかの積極性を発揮しなければ仕事そのものが成立しないので、すでにそのような権力関係があることを意識しておく必要があります。

 こう考えると「怠け者」というカテゴリーを用いるのはとても合理的です。また、怠け者を問題視する勤勉倫理は基本的に社会全体で多くの人々に広く受け入れられた価値だということも重要かもしれません。普段余り使わないような言葉、例えば「お前は社会化の過程で深刻な問題を抱えたようだ」とか言われても、「何言ってだこいつ」と思われるでしょう(この言い方で相手にダメージを与えられる場合もあるでしょうが)。

■怠け者を排除するとはどういうことか

 次に怠け者を排除するとはどういうことかを考えてみましょう。

 前回の終わりに「これまで見てきたことはどのような意味で『怠け者の排除』だと言えるのか」という問題を提起しましたが、よく考えてみたら怠け者を作ることは誰かを「仲間はずれ」にするということなので、そもそも排除に違いありませんでした。仲間はずれにされるということは、集団の中で不利な立場におかれるということ――端的に言えばあの手この手でいじめられるということですから、具体的な不利益を被るものです。心理的・精神的な苦痛も味わわされるはずです。

 いったん怠け者にカテゴリー化された人はきちんと仕事をしていても不当に低い評価を受けます。そして不当な評価を受けるからこそ余計にきちんと仕事をしなければならなくなります。不当な評価にうんざりして手を抜けば相手の思うつぼになってしまうからです。もし手を抜く道を選べば排除の圧力は強まり、その場にいられなくなるでしょう。

 ここに誰かを怠け者扱いする効用があると考えられます。不当な怠け者扱いは、そのレッテルとは反対に真面目に働くことを相手に強いることになります。積極的に働く姿勢を見せなければ、揚げ足取りのように怠け者扱いされ、みじめな思いをします。これをバカバカしいと感じる者はその集団から出ていくでしょうし、出ていかなければ出ていくように排除の圧力は強まるのです。

 その結果、その集団には積極的に働こうとする者だけが残るようになります。前回、僕が怠け者扱いされた事例を紹介しましたが、この怠け者扱いは実は関係ができあがる過程で起こっています。ある程度認知され、あてにされるようになってきているがゆえにこのような扱いをされるようにもなるわけです。言うなれば、怠け者扱いはこの集団の一員として認められるための通過儀礼的な意味合いを持っているのです。

 そして、怠け者扱いされる「やつら」の側から「われわれ」の側に移るための方法は「誰かを怠け者扱いすること」です。もっと正確に言えば、「彼らと一緒になって誰かを怠け者扱いすること」です。怠け者を創出すする集団の側に加われば、自分自身が怠け者扱いされる側から抜け出すことができます。

■他人を怠け者にすることの落とし穴

 しかし、怠け者扱いする側になったところで、怠け者扱いされる危険がなくなるわけではありません。序列関係の下の方にある者は依然として怠け者扱いされる危険が高いと思われます。そのため、ある程度の勤勉さは発揮し続けておかなければならないし、勤勉さを演出する必要も出てきます。第6回の倉田さんのふるまいを思い出して下さい。「自分は常に真面目に働いている」という演出を随所で行っていることがわかります。「自分はやつらの側ではない」ことを示しておく必要があるわけです。

 ここに誰かを怠け者扱いすることの落とし穴があります。ひとたび他人を怠け者扱いする側に立つと、自分自身は怠け者ではない、真面目に働く者であるということにするための努力が必要になってきます。他人を排除することは単に目障りな人間を追い出すということではなく、自分自身を縛る規範を持ち込むことでもあります。ひとを呪わば穴2つ、情けは人のためならずみたいですね。

 排除するということは集団に含まれた矛盾を隠蔽するということだし、包摂するということは集団に矛盾を含み込むということなのかもしれません。そして、そこにある矛盾の実体を捉えることが社会的排除という視点の肝なのかもしれません。(2009年9月23日(水)更新)



第9回 理論的にはどんなものか

別に読まなくていい今回の独り言

1)実際には「怠け者」という言葉が直接用いられることは少ない。「サボる」とか「休もうとする」と言われる。

2)出口のない競争、「負けないための競争」?