怠け者の社会学

第9回 理論的にはどんなものか

■論文は書いたが

 前回とりあえず事例分析としてはストーリーが出尽くした感じだったので重い腰を上げて論文をまとめました。これから推敲する作業がありますが、なんとか最初から最後まで筋を通すことができてほっとしました。

 ところで書きながら思ったのは「怠け」をめぐる理論的な部分についてでした。論文というのは最初に問題設定というのがあって、自分が扱おうとするテーマについて触れている他人の研究(いわゆる先行研究)を整理して自分なりの問題関心を明らかにします。

 あんまり複雑なことを言おうとすると破綻するのでシンプルな問いを設定します。自分の手持ちのデータを使って言いたいことが言えるような問題設定がなんとかできたとほっとする反面、このテーマはもうちょっと掘り下げて議論する必要があるのではないかと思いました。

 「怠け」をめぐる理論的な(というか思想的?思想ってなんだ?)議論を整理した上で何を明らかにするのかを設定した方が論文に圧倒的に深みが出るはずです。しかし、日頃の勉強不足のために今回はそこまで詰めることができず、もったいことをしました。

 とはいえ、この論文を練り直す機会もあるかもしれないし、このテーマそのものの理解を深めておくために、理論的なところをちょっと考えてみようと思います。

■怠ける権利

 「理論的なところをちょっと考えてみる」と言っていますが、ここでは読んでいない本の話もするのでご注意下さい。聞きかじりのイメージでものを語るので、あなたが聞きかじりの聞きかじりで恥をかいたり損失を被ったとしても当方は一切関知いたしません。

 「怠け」について理論的な話をしようと思って、まず頭に浮かんだのはポール・ラファルグの『怠ける権利』という本のことでした。ラファルグは『資本論』で有名なマルクスの娘のだんなで、「人間には怠ける権利があって、1日に3時間程度の労働はまあ刺激として必要」みたいなことを唱えました。といっても僕は読んでいませんが、そんなようなことが書いてあるそうです。翻訳が出ているけどとっくに絶版で、大学の図書館でコピーして手元にはあるのですが、眠たくなる文章なので読めていません。

 僕はわりとラファルグの主張に抵抗はないのですが、ちょっとひっかかることがあります。「怠ける権利」というのは「働かない権利」ということになるのでしょうが、「働かない」に対応するのは「怠ける」なのでしょうか。僕には「怠ける権利」と言った時点で負けを認めているような気がしてしまうのです。

 労働者が資本家に搾取されていて、労働によって得られる生産物を労働者の手に取り戻そうと盛り上がっていた時代背景があって、この時、労働というのは価値のあるもの(商品)を作りだす手段で、価値のあるものを作りだす労働自体に価値があるということになったのだと思います。

 なんかこの辺の話をちゃんとしようとすると僕の頭ではついていけなくなるので深入りしません。ラファルグのことをもうちょっと考えてみましょう。

■1日3時間の労働とは何か

 ラファルグは1日3時間程度の労働は人生を楽しむために必要だと言っています。この場合の労働とは何でしょうか。僕には「やらざるをえないことだけど、ぎりぎり切り詰めて3時間までしかやらない」ということのように思えます。全くやることが無くて、何をしてもいいとなるとこれは結構苦痛です。人間は何か仕方なしにでもやることがあった方がいいのです。知らない人はあんまりイメージできないでしょうが、「生活保護を受けだして生活は安定したものの、生きがいを喪失してあんまり楽しくないことになっている元ホームレスのおじさん」の問題というのもあります。

 苦役であっても1日3時間程度であればアクセントになるのはどうしてなのか――これはこれで面白いテーマですが、これに拘りすぎるとまた大変なことになるので措いておきます。これに拘ると「その3時間の苦役が実は価値があるのだ」という方向に話が転がりそうで面倒です。苦役は苦役でいいじゃないですか。難しく考えてはいけません。

 考えてみれば「怠ける権利」というのは、もっと具体的に言えば「1日3時間まで働く権利」であり、「それ以外の時間を自由に使う権利」ということになるのではないでしょうか。「1日3時間まで働く権利」であり、「1日3時間までしか働かない権利」かな。

 キャッチコピーとしてはうまいけど、「怠ける権利」と言ってしまうと、「働かない」ことがネガティブなことになってしまうように感じられてしまいます。かといって言葉を変えて「余暇の権利」とかいうとまた話が違ってきます。「余暇」というのは「労働」に従属するもの、「労働」の付属物・補足的なものなので、これはこれはで「労働」に価値を置いてしまいます。

 要するに、労働はいいものでも悪いものでもなく、単に必要なものであり、しかし、必要以上に取り組んではいけないものなのです。労働は単に「そういうもの」であり、労働に余計な意味づけするのはやめた方がいいのです。「働く喜び」とか「仕事は生きがいにもなる」とかいらないことを考えてはいけないのです。働くことは苦役で、苦役は苦役として必要なのだから、妙なことを考えるのが間違いの始まりです。いらんこと考えるから使用者にだまされるのです。

■とか言ってみたら

 とか言ってみたらラファルグが実際どういうことを言っているのかが気になってきました。そんなに長いものでもないので試しに『怠ける権利』を読んでみることにします。普通はちゃんと読んでからこういう話をするか、こういう話をする前にちゃんとこういうことを考えてから本を読んで、確かめてからこういう話をするんでしょうね。でもどういったわけか僕にはできません。バカだからなのかな。(2009年10月14日(火)更新)



第10回 それでは何を考えるべきか