野宿者支援の社会学

第3回 誰がその人を野宿者とするのか

 第3回では、誰がその人を野宿者とするのか、ということを考えたいと思います。

 「野宿者は野宿者だろう」「ホームレスはホームレスだろう」と思われるかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。例えば、「大人は大人だし、子どもは子どもだろう」と思うかもしれませんが、子どもというのは大人との関係で意味を持つものだし、それは同時に、子どもとの関係で大人であるということの意味が成立することでもあります(大人と子どもという区別は、近代になって成立したものだという話もあります)。ただし、子どもがいなくても大人は大人として存在しています。しかし、そこでは大人という区分は意味を持ちません。子どものいない世界では、大人であることを意識する必要がないからです。

 同じように、野宿者しかいない世界、野宿者自身が独立した世界で自らを野宿者であると考えることに意味はなく、野宿者ではない者と野宿者との関係が成立したところに、初めて野宿者という区分が成立するのです。

■浮浪者という言葉

 ここでの議論の端緒はすでに第1回で示されています。第1回で僕は次のような整理をしました。

 野宿者とは「何らかの事情で野宿生活が恒常的になっている人であり、また他人からそのようなカテゴリーを当てはめられたり、自分自身がそのようなカテゴリーを引き受けなければならなくなった人」そして「野宿者とは社会の厄介者で、存在自体が否定的にとらえられている人たち」です。

 一つ目の整理において、「他人からそのようなカテゴリーを当てはめられる」ことと「自分自身がそのようなカテゴリーを引き受けなければならなくなった人」とが併置されていますが、時系列的には「他人からそのようなカテゴリーを当てはめられる」ことが先立つものです。

 今でこそ、ホームレスや野宿者のほか、路上生活者と呼ぶ場合もありますが、戦前から戦後にかけて、野宿生活をする人たちに対して当てはめられていた呼び名(カテゴリー)は「浮浪者」でした。「浮浪者」という呼び名がいつ頃から、どのようにして定着したのかまでは分かりませんが、明らかに否定的な言葉、ありていに言って差別的な言葉です。「ここにいるべきでないのにうろうろしている人間」という否定的な意味が込められています。いてはならない人間であり、そのようなあり方を責められても仕方のない人間というわけです。

 「ここにいるべきでないのにうろうろしている人間」という意味では、不審者という言葉もあります。しかし、不審者は、ある場所、ある状況において不適切なふるまいをしている人間を疑う際に用いられる言葉です。それに対して浮浪者は、一時的にそのような状態にあるのではなく、ある種の恒常性があるところに違いがあります。つまり、不適切なふるまいが、恒常的な野宿生活に起因するものと目されている人たちです。

■浮浪者からホームレス、野宿者へ

 この言葉は1983年の横浜浮浪者襲撃殺害事件を境に使われなくなりました。この事件は未成年が野宿者を襲撃して、殺害したというものです。差別され、否定的に扱われる浮浪者でも、殺してはいけない、殺人は殺人であるというくらいのモラルは、この社会にもあるようです。しかし、この事件がとりわけ問題となったのは「未成年の子どもたちが殺人を犯した」という特徴にあります。つまり、被害者である野宿者の問題というより、加害者である子どもたちの「心の闇」が問題とされたわけです。

 子どもたちがこのような行為に及んでしまったのは、野宿者のことを差別的な意味合いを含む浮浪者という言葉で名指す大人たちの社会にもあるのではないか、ということで、浮浪者という言葉は禁止され、別の呼び名が模索されるようになりました。

 呼び名が変わったところで、扱いが変わるわけではありません。何せ、呼び名を変える動機は子どもたちのことを心配してのことでした。野宿者に対する襲撃は、ニュースにならないだけで、日常的に起きているし、最近のものだけでも、2012年に大阪、2020年に岐阜でも、少年たちに襲撃された野宿者が死亡する事件が起こっています(野宿者に対する襲撃事件については「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」の年表で一覧できます)。

■野宿者であることの自覚

 私たちの社会の中で多少反省がなされたところで、野宿者を「社会の厄介者扱い」していることは変わりません。野宿生活を送る人たちも「社会の厄介者」と見られていることを自覚しています。寝場所を探すのにも苦労するし、嫌がらせを受けたり、不審な目を向けられることも日常茶飯事であり、それでも何とかやっていくためには、他人からそのように見られていることを自覚した上で、咎めだてされないように計算して行動する必要が出てきます。「自分自身がそのようなカテゴリーを引き受けなければならなくなった人」とはそのような意味です。これは、世間から向けられる視線を内面化し、自分自身、否定的に受け止めつつも、生き抜くために必要な現実認識とするものです。

 世間から否定的なまなざしを向けられようとも、野宿生活とはやむなく押し出されるものであり、これは本人にとってもどうしようもないことです。前回も触れたように、人によっては、就労支援のような施策があったとしても、進もうにも戻ろうにも希望が見出せないわけだし、社会の中で見捨てられつつも責められる極限状態にとどまることを意味します。

 そのような状態に置かれて、しかし、野宿生活をオルタナティブな選択肢ととらえ直し、自分らしい生き方を実現する手段とする可能性もあります。これも前回説明した通りです。この場合もやはり、世間からの否定的なまなざしを引き受けているところは同じですが、自分の中では肯定的に、むしろ積極的に野宿者というカテゴリーを引き受けることを意味します。

 今回確認しておきたかったことを最後に整理しておきましょう。野宿者とは、まず野宿者ならぬ他人によって認識されるものであること、そして、その認識は否定的なものであるということです。次に、野宿者はその否定的な認識を受け入れざるを得ない状況にあり、自分自身が野宿者であるということを、消極的にであれ、受け入れなければなりません。しかし、その消極的に受け入れなければならない立場を、むしろ積極的に受け入れ、肯定的に活用する生き方がありえます。

 ここまで確認した上で、次回からは、野宿者にかかわっていく支援という立場について考えていきましょう。(2021年8月17日(火)更新)

第4回 支援という立場

別に読まなくていい今回の独り言

1)別に読まなくていい今回の独り言は、今回はなくてもいいかなと思ってたんだけど、ちょっとしんどいから、針路を誤らないための覚書として書いておいた方がいいかもしれない。

2)これ、最終的にどこを目指して、どう膨らませていくのか。というか、重要なのは、どこを目指すかより、どう膨らませるのかの方だ。「なんとなくこういうことを言いたい」「こういうところにたどり着きたい」というイメージはあるが、なかなか一足飛びには、そこにたどりつけないからこそ、こういう面倒くさいことをしているわけだ。ゴールにたどり着けるかどうかは、話をどんなふうに膨らませられるか、十分に膨らませられるかどうか、どんな方向に膨らませるかにかかっている。

3)最初から使いたいエピソード、これは入れたいと決めているエピソードはある。しかし、そのエピソードの切り方が分からず、膨らませ方も分からないから、こんなことになっている。「日雇い労働者のつくりかた」形式は、そのような壁を乗り越えるための知恵だ。それはともかく、使いたいエピソードをすぐさま膨らませればいいというわけではない。膨らませられるようにするための手順を確認しつつ、作っていくのが、この読み物を書く目的だ。当たり前に語れば伝えたいことが伝えられそうなのに、当たり前に語ることができない。どう語ればいいのか分からないという、どんくさい状況を打開するための手段。

4)もしかすると、入れたいと決めているエピソードだけでは不十分かもしれないから、他に入れなければならないかもしれないエピソードを探る作業でもある。入れたいと決めているエピソードにしても、どの程度のボリュームで活用できるエピソードなのかも考えなければならない。もしかすると、自分が考えている以上には豊富なテーマを含んでいる可能性もあるし、変な方向に膨らませてしまうと、逆に足を取られ、袋小路に迷い込んでしまうだろう。

5)最終的に到達しなければならないのは、路上生活に秘められた可能性の世界であり、また、それは未だ意識されていない世界の成り立ちを示すものであることを論証することだ。そのために僕たちが何を受け取ってきたのかを忘れてはいけない。僕もまた引き受けなければならないことがある。そのような責任がどこから発生するのかも、論点の一つだろう。

6)「センターの日」を入れるかどうかでも話は違ってくる。当然、エピソードとしては入れないと成り立たないのだが、きっちり位置付けをするなら、もう読み物全体のスケールとして、『野宿車支援の社会学』という本を書くくらいの構想で考える必要が出てくる。