野宿者支援の社会学

第4回 支援という立場

 「野宿者支援の社会学」ですが、野宿者支援に入る前に、野宿者に3回を費やしてしまったことになります。文字数にして12,000字以上になるようなので、論文だったら、これだけで半分以上、文字数が埋まってしまいます。今数えてみたら初回で約2,800字、第2回で約5,600字、第3回で約2,600字でした。第2回が異常に長かっただけで、1回分を2,500字〜3,000字くらいのボリュームで考えていけば良いのでしょうか。もともと1度に読むのにしんどくない分量というのもそんなものだと思います。

■野宿者との関係

 第2回の最後に「野宿生活とは、野宿生活を送る人が置かれた状況によって、相反するほど、解釈の幅があるようなもの」だと述べました。

 ところで、あなたは野宿者でしょうか。それとも野宿者ではない人でしょうか。野宿者との関係を考える上で、まず二通りの立場があると思います。すなわち、野宿者が野宿者に対する場合と、野宿者と野宿者でない人との関係です。なるほど、どちらもじっくり考察を深めねばならないようなテーマですが、ここでは後者について考えて行きたいと思います1)

 そもそも野宿者という立場自体、野宿者でない人からの視線によって成り立つものであり、この視線は否定的なものです。この視線が否定的なものであることは、野宿者に先立つ呼び名が浮浪者という蔑みを込めたものであったことに現れています。野宿者でない人は野宿者に対して否定的なまなざしを向けます。

 この否定的なまなざしが同情的なものである場合もあります。しかし、同情的なまなざしとは、否定的なまなざしと裏表の関係にあると思います。副次的なものと言ってもいいかもしれません。同情的なまなざしとは、他人から蔑まれるような惨めな生活に対する哀れみだからです。

 あと、無関心というのもあるかもしれませんが、無関心な人はそもそも野宿者に対して、まなざしを向けるということがありません。もしかすると、他人が野宿者に対するまなざしを向ける相手と、野宿者だと意識せずに何らかのまなざしを向けたり、関わりを持ったりすることはあるかもしれません。たまたま知り合って仲良くなった人が野宿生活をしていると後に知るようなこともありえます。これについても、後に扱う必要があるかもしれません2)

 支援というのは、何らかの問題を抱えている人たちに対して、その問題解決の手助けをすることでした。ゆえに、支援に携わる人たち、支援者は、他人の中に、あるいはその人を取り巻く状況に問題を見出し、その解決を目指して、その人との関係を持つことになります。

 支援者というと、当然、野宿者ではない人の取りうる立場のように思われます。しかし、実際には、野宿者が野宿者を支援するということも考えられます。もちろん、野宿者同士、手に入ったものを融通しあったり、情報交換をしたりといった助け合いはあるでしょう。しかし、助け合い、すなわち互助は支援とは異なります。支援は、あくまで助ける者と助けられる者という非対称的な立場を前提としています。野宿者が野宿者でありながら野宿者を支援する支援者であるとしたら、どのような立場になるのでしょうか。このことについても、いずれ考えていくことになるかもしれません3)

 差し当たり、野宿者ではない人が野宿者を支援する場合について考えていきましょう。

■何を問題ととらえるのか

 ようやく野宿者支援について考えはじめることができます。しかし、何をその問題ととらえるのかで、支援の中身は変わってくるし、支援者としての立場もさまざまであることになります。

 これは結局、野宿者ならぬ支援者が、野宿者をどのように見ているかにかかわってきます。ここで、「野宿生活とは、野宿生活を送る人が置かれた状況によって、相反するほど、解釈の幅があるようなもの」という冒頭の指摘に話は返ってきます。支援者も、野宿者の置かれた状況によって相反するほどの揺れ幅を引き起こす、解釈の領域に引き込まれるのです。

 野宿生活はさまざまな不自由をともなうものであり、野宿生活に及ぶまでに、そうならざるを得なくなるような痛手を負っていることになります。それは、例えば失業であったり、病気であったり、借金、家族との不和などがあるでしょう。さまざまな痛手を負って、結果として野宿生活という不自由な生活を送っているのだとすれば、その状態から抜け出すことを望むのが普通ではないでしょうか。

 また、このような状態に陥った人に対して手助けをするとすれば、行政の役割か慈善事業の領分だと考えるのが普通だと思います。野宿生活をする人の姿を見かけたとして、一個人でできる手助けなど知れています。なんとかしてあげたいと思っても二の足をふむか、何か食べ物か物品を差し入れするくらいがせいぜいではないでしょうか。これでは、野宿生活を続けるうえでの手助けにはなっても、野宿生活から抜け出す手助けにはならないでしょう4)

 人によっては、仕事を紹介してあげたり、生活保護を受ける手助けをしてあげるといったこともできるかもしれません。実際に仕事と住むところを紹介してくれる人もいますが、こういうことをするのは手配師といって、働き手を紹介することで手数料を得ることを生業としている人なので、厳密には支援とは言えません。手数料目的ではなく、自分の知り合いで何か事業をしている人に紹介したり、自分自身が事業をしていて、直に雇ってあげるということもありうるかもしれません。

 しかし、路上でたまたま知り合った素性も分からない人のために、そこまでしようという気になるでしょうか。何かトラブルを抱えているかもしれないし、まともに働いてくれるかどうかも分かりません。それでも雇いたいというところがあるとしたら、それはよっぽど働き手がなくて困っている会社で、働き手がいないということは、あまり条件の良くない仕事であることを意味します。また、第2回で触れたように、「必死で仕事を探しても、どうにもならなかった上で野宿生活をはじめた」という背景があることも思い出して欲しいと思います。

 生活保護を受ける手助けをしてくれる人もいます。場合によっては、住むところとセットで生活保護の申請までやってくれる人もいます。そういう人はそれ自体を事業としている組織に属しています。生活保護費の一部が家賃収入として還元されることで、このような事業が可能になっています。貧困ビジネスと揶揄されるようなところもありますが、自前の物件を持っているわけでもなく、希望する人に付き添って、生活保護を申請し、部屋を借りて生活を始める支援をするような団体も実際に存在します。

 2021年現在、日本社会では、野宿生活から抜け出す支援をするためにさまざまな取り組みが行われています。生活保護を受ける手助けをするだけでなく、生活保護を受けた後の生活支援、就労支援まで視野に入れた活動もあります。その背景には、若者の貧困や女性の貧困、子どもの貧困など、次々と貧困が発見されていく時代の流れもあったと思います。ネットカフェ難民や派遣村、近年の子ども食堂など、貧困の広がりを実感させるような出来事もありました。2013年12月13日には生活困窮者自立支援法が公布、2015年4月1日に施行されています。1990年代の野宿者の急増、貧困の広がりとともに、生活保護が受けやすくなったことも、還元される生活保護費を原資とした活動の整備をうながしたと思われます。

■でも、そんなことはどうでもいい

 というように、野宿生活からの脱却を支援する取り組みや制度はたくさんできていて、それに携わる支援団体、支援者も当たり前に活動しています。その中には全国的に有名になっている活動もあります。

 野宿者支援とは、野宿者が野宿生活から抜け出し、社会復帰する手助けをすることであると言ってしまえば話は簡単です。しかし、僕はそんな話をする気はさらさらありません。さらさらないくせに、こんなことを長々と書いてちょっと嫌になってしまいました。こんなに書いてもまだ、野宿者支援の立場にかかわる話の半分しかできていません。

 とはいえ、文字数も3,000字に近くなってきたので、第4回はこの辺りで締めたいと思います。

 なんだか疲れてしまいましたが、疲れてしまうのは、きっとこれが正しいことだからなのだと思います。野宿生活は不自由なものであり、誰にとっても望ましいことではない。その野宿生活から抜け出すための仕組みが作られ、その手助けをしようという善意の人たちがいる。何もまちがっていません。むしろ正しいことです。

 しかし、正しいことだからこそ、見えなくなってしまうものがあり、語りにくいことかあります。その語りにくさを解きほぐした先にあるものを見に行きましょう4)。(2021年8月19日(木)更新)

第5回 野宿生活の肯定的評価

別に読まなくていい今回の独り言

1)こういうふうに、まわりくどいことをくどくどと言って、掘り下げていくの楽しい。

2)これが伏線というものだな。回収するのかどうか、できるのかもわからないけど。僕たちは常に常識化された還元の中を生きているから、それを揺らがすためには、横道に逸れる必要がある。横道に逸れながら目的地を探し出し、たどり着くための技術が「日雇い労働者のつくりかた」形式たるこの文体なのかもしれない。テーマの広がりを量っていく。

3)まだまだ序盤、風呂敷を広げる段階ということだなあ……。

4)袋小路に入り込まないように気をつけていても、どうしてもその目の前まで行かなければならない場合はあるだろう。それをどう乗り越えていくか。次回まではまだ、概念整理で終わってしまいそうだ。第6回から事例に入ることになるのかな。そうすると、事例は何を使うんだろう。いきなり本題というわけには行かなさそうだけど……。

5)今回初めて本文中に上付きで脚注番号を入れてみたけど、こうしてみると脚注というのは本当に「読まなくていい独り言」だし、著者の言いわけなんだなと思う。