野宿者支援の社会学

第5回 野宿生活の肯定的評価

■野宿者問題の不安定さ

 第5回を書き出すために、これまでの回の議論の流れを読み直してみると、後の回の主題に据えていることの答えを、すでにさらっと述べてしまっていることに気づきます。さすがに議論が回りくどくなりすぎているような気もするし、必要な回り道であるようにも思えます。

 ここまで書いてきて思うのは、野宿生活とそこから成立する野宿者という立場は、とても不安定なものであるということです。不安定というのは、その生活状況が不安定というより、その状態が一定したものではなく、とらえにくいという意味でのことです。

 野宿生活というのは、普通に暮らしていた状態からすれば緊急事態であるはずです。にもかかわらず、その緊急事態が恒常化してしまう、当たり前になってしまいます。本人にとっても緊急事態で、困った状態であるにもかかわらず、その苦境を周囲や社会には理解してもらえないという意味でも不安定です。自分の置かれた状況に対する自己評価と自分が置かれた状況に対する他者からの評価に、大きな落差があるのです。

 しかし、その状態を問題であると理解してくれる人たちもいます。そのような人たちはしかし、野宿者が現れてからしばらくしてからでなければ現れません。野宿生活が恒常化した人たちが目立つようになってから、ようやく理解が進み、具体的な支援活動に踏み出すという順番になるからです。支援者は野宿者が置かれた状態を解決すべき問題ととらえますが、そうした「野宿者問題」とでもいうような見解は、そもそもの問題の発生からかなりの時間が経過した時点で初めて成立するものです。

■乱立する〈野宿者問題〉

 また、その「野宿者問題」にも、さまざまな見解がありえます。一人ひとりの野宿者が置かれた状況は異なります。昨日今日、野宿生活を始めた人は、厳密には「野宿生活が恒常化している」とは、まだ言えないはずですが、野宿者という見方が社会の側に定着していれば、野宿者ととらえられるでしょう。野宿生活が1ヶ月、2ヶ月と長期化して、どうやら自力では抜け出せそうにないと思う時期にある人もいるでしょう。さらに、1年、2年と年月を重ね、野宿生活をしながら現金収入を得て、野宿生活のまま自活している人もいます。

 社会の側が、野宿生活に陥ったこと自体を即座に問題だと判断して対応してくれるようなら、救済の対象となる野宿者象は単純なものになるはずです。しかしもし、もともとそんな社会なら、そもそも野宿者という言葉自体、用いられないかもしれません。誰かを「野宿者」と呼ばなければならないような状態が生じないからです。

 野宿者は、まず社会の厄介者=〈野宿者問題1〉として発見され、やがて野宿者への理解が進み、支援の対象=〈野宿者問題2〉として位置付けられます。このように〈野宿者問題1〉から〈野宿者問題2〉への発展が、社会的には成されるものの、〈野宿者問題2〉に発展したとしても、〈野宿者問題1〉のような見方が、社会から無くなるわけではありません。さらに〈野宿者問題2〉には、〈野宿者問題2a〉、〈野宿者問題2b〉といったように、複数の見解が存在します。

 野宿者一人ひとりが置かれた状態は異なりますが、どれが正しくてどれが間違っているというようなものではありません。しかし、野宿者問題を構成するモデルとして取り上げられる野宿者像が、どの段階のものなのかによって、見えてくるものは異なるし、野宿者問題は相互に排他的なものとして乱立するかもしれません。しかし、それでも、どちらが正しいとか間違っているかを競い合うようなものであってはなりません。

■〈野宿者問題2a〉――望ましくないものとしての野宿生活

 「乱立する」とは言いましたが、この読み物で取り上げる〈野宿者問題〉は3種類、すでにあげた〈野宿者問題1〉〈野宿者問題2a〉〈野宿者問題2b〉の三つで十分だと思います。〈野宿者問題1〉の方にも、少なくとも前回触れたような「否定的なまなざし」と「同情的なまなざし」の2種類が想定できますが、すでに述べたようにこれらは裏表の関係にあるようなものだし、これは「野宿者支援の」話なので、〈野宿者問題2〉の方を重点的に語れば十分だと思います。

 というわけで、まず〈野宿者問題2a〉ですが、これは前回整理した通りのものです。この立場では、野宿生活は不自由なものであり、健康維持にも支障を来たす、望ましくないものであり、このような状態にあることも問題なら、このような状態に陥ることも問題です。そして、この見解にある野宿者支援が目指すものは、野宿者が野宿生活から抜け出し、社会復帰する手助けをすることであり、これを発展的させた先には野宿生活に陥らないための予防も含まれてきます。

■〈野宿者問題2b〉――野宿生活の肯定的評価

 対する〈野宿者問題2b〉の見解は、野宿生活の中に肯定的なものを読み取るものです。これは、第2回で触れた「問題解決の手段としての野宿生活」にかかわるものです。

 分かりやすく言えば「野宿生活なんてまっぴらだ。まともな仕事をして家を借りて、安心して快適に暮らせるなら、それに越したことはない」と考える人もあれば、「あくせく働いてギリギリの暮らしをするくらいなら、十分に整った野宿生活を続ける方がいい」と考える人がいても不思議はないという話でした。

 また、これは「もともと苦しい状況にあった上での、苦肉の策と言った方がいいかもしれない」ようなものであることも、すでに指摘しています。

 すなわち、野宿生活の肯定的評価といっても、これはいくつかの条件付きのものであり、また、実際にそのような生活する本人がそれを望んでいることを前提としています。

■もう一つの野宿者支援

 これでようやくもう一つの野宿者支援の話に入ることができます。

 野宿者支援とは野宿者が抱える問題の解決の手助けをするものです。一つには、野宿生活そのものが問題と考えるものでした。そして、もう一つは、野宿者自身が存続を望んでいる野宿生活を脅かすものを問題と考えることになります。

 このように言うと、いろんな批判が飛んでくることになります。読者のみなさんも、そう時間をかけなくとも、いくつかの批判ないし、反論を思いつくことができるのではないでしょうか。次回は野宿生活を肯定することに対する批判について見ていきたいと思います。(2021年8月20日(金)更新)

第6回 野宿生活を肯定することに対する批判

別に読まなくていい今回の独り言

1)脚注番号とか、いらんな。

2)とても事例になんて入れそうにない。全15回くらいだとして、半分くらいこういう理論的な整理で終わってしまうかも。岩田正美の「緩慢な自殺」の話とか、どうしても入ってくるだろうし。しかし、こういう整理は先行研究でもある程度なされているはずだ。うーん。それでも自分でやらないと不十分だと感じているから、こんなことをやっているんだろうけど、慎重にやらないと、新しいものが出てこないまま書き進んでしまいそう。

3)2017年の室田論文の整理がある程度当てはまるんだろうなあ。でも、室田くんの論文はなんかもう一つ核心を突けていない感じが最初に読んだ時からずっとしている。じゃあ、2019年の僕の論文はどうなのか。

4)理論的な整理に時間をかけてもいいけど、それは最終的にはデータの分析を後押しするための必要最小限のものでなければならない。ある程度書き切った後に、早いところ、データの記述に入ってしまった方がいい。そこにまたもう一つの山があるということなのだろうけど。

5)当事者と支援者相互が主体を作り出しているという議論にも全然切り口が付けられていない。