野宿者支援の社会学

第6回 野宿生活を肯定することへの批判

 野宿生活を肯定することに関しては「路上の権利」という言葉があります。これは別に「野宿する権利」と言っても構いません。要するに野宿生活を肯定する考えを普遍化する志向の現れと言えるでしょう。

 野宿生活を肯定するといろんな批判が飛んでくると前回言いましたが、それはそもそも野宿生活そのものが批判されるものだからです。これまで繰り返し、この言葉を使ってきたように、そもそも野宿者は社会の厄介者ではなかったでしょうか。なぜ厄介者かというと、野宿生活を続けられることを迷惑だと感じる人が多いからだと考えられます。

■野宿生活はなぜ迷惑なのか

 野宿生活はなぜ迷惑なのでしょうか。思いつくままに羅列していきましょう。

 まず、野宿生活と言っても、訪れる人の少ない荒野や自然の中で営まれるわけではありません。第2回で触れたように都市で野宿するとなれば、公園や路上、河川敷、公共施設の軒下や雨風をしのげる橋や高架の下などの公共空間を選ぶことになります。これらは誰か個人のものではなく、言うなれば「みんなのもの」ですが、野宿という用途は想定されていません。

 野宿者のテント小屋について、よく「不法占拠」という言葉で非難されます。みんなが使う場所を一個人が私物化していることを問題にしているわけです1)。公園の一角にテント小屋が設置されていれば、それだけ公園の敷地は狭くなるし、そこで生活をしている人がいるとなれば、公園の使い方にも何かと気を遣わなければならなくなります。その人は公園に済む権利を持っているわけでもないのに、なぜ自分たちが気を遣わなければならないのか。立ち退いて欲しい、どこかへ行って欲しいと考えるのが人情です。

 野宿生活をする人たちの姿が目に入ることが嫌だという人もいるでしょう。お風呂に入ったり、洗濯をしたりすることも大変なので、薄汚れた格好をしている人もいます。そのような人が公園や路上など、目につくところにいるのが嫌だというわけです。そのような姿は、その人の窮状を現すものでもあるのですが、そうした現実があることを不意打ちのように目の当たりにさせられることは気分のいいことではないかもしれません。そのような人たちの姿の人たちは何をしでかすか分からない、そのような人たちの姿が目立つと、治安が低下するという感覚も抱かせます。

 治安の低下といっても、治安の低下を心配する側の人たちの中から野宿者に暴力をふるう人が現れて、結果として路上犯罪が増加するというのが実際かもしれません。つまり、野宿者は被害者のはずなのに、治安を低下させる加害者のように錯覚されていることになります。その姿は犯罪を誘発するがゆえに罪なのだというわけです。問題は犯罪を誘発させられた側にあるはずですが、そういうふうには考えられません。

 事実と異なること、根拠の怪しいことを理由に誰かを排除することなど、あってはならないと思います2)。しかし、このような不安を抱くこと自体は止められるものではないし、私たちはその不安に向き合う必要があるでしょう。

■被害者としての野宿者

 野宿者の姿を見て「怖い」と言われることがよくあります。何かされるんじゃないか、敵意を向けられるのではないかと不安になるのです。しかし、実際には、被害者になるのは圧倒的に野宿者の側です。部屋の壁に守られているわけではない剥き出しの生活は、暴力のターゲットにされることが頻繁にあります。もちろん、毎夜必ずというわけではありませんが、誰が来るのかわからない場所で、睡眠という無防備な態勢に入らなければならないのは「怖い」ことです。

 また、野宿生活をせざるを得ない状況に追い込まれること自体が、社会の歪みの被害者だという言い方もできます。ホームレス問題とは失業の問題だと言われるように、仕事を失って、収入が得られなくなったことが、野宿生活をせざるを得なくなる大きな要因です。そのほか、病気であったり、借金、家族との不和なども考えられることを第4回で述べました。

 これらのことにはすべて両義性があります。失業は不運なことだし、どんなに努力しても再就職先が得られないこともあります。しかし「本当に仕事を続けられるだけの努力をしてきたのか」「選ばなければ仕事はあるんじゃないか」「若い頃に真面目に働いていなかったツケが回ってきた結果ではないか」など、いくらでもその人個人の責任を追求することはできます。病気や怪我も不慮の出来事ですが、「日頃から不摂生をしていたのではないかとか」「そのための備えをなぜしていなかったのか」と考えることもできます。家族がすでに亡くなっていて、頼る相手がそもそも存在しないとか、家族も苦しい生活をしていて頼ることができないというケースもあります。しかし「それでも助け合うのが家族だろう」「家族に頼れないのは自分が不義を働いたからではないか」「結婚できるような、真っ当な暮らしをしてこなかったのが悪い」などと言えるかもしれません。

 被害者という意味では、こういった否定的な見解、あらゆることを個人の責任に帰する理屈を野宿者自身が内面化しています。ここでも、被害者であるはずなのに、自分自身に対する加害者になっているという言い方もできるでしょう。

 前回、野宿問題とは不安定なものだという話をしました。野宿生活がいかに大変で、本人の努力ではどうにもならない部分があると強調しても、事実がどうあるかとは関係なく、感覚的な批判を受けることになります。そもそもその「事実」を確認すること自体、時間がかかるし、本人との対話を通して明らかにしなければならない、とらえにくいものです。自己否定的な認識を抱いている人から事実の聞き取りをするのも大変です。記憶違いもあるだろうし、聞き取る側が誤解してしまったり、何らかの事情で自分の素性を誤魔化す必要があり、嘘をついている場合もありえます。

 野宿者は、野宿生活という緊急事態にありながら、自責の念に囚われたアイデンティティの危機を生きていると言えるでしょう。

■アイデンティティの危機を越えて

 野宿者支援はこのようなアイデンティティの危機を抜け出す手助けをしているという言い方もできるかもしれません。

 野宿生活を緊急事態ととらえ、そこから抜け出す手助けをするのは、野宿生活自体を解消することで、「こうありたい自分」と「実際の自分」とのズレを解消していく戦略だと言えるでしょう。

 野宿生活を肯定的に評価する道は、野宿者自身が野宿生活にありながら、このズレを解消していくものだと言えるでしょう。支援者はその手助けをすることになります。

 どちらの道を進むにしても、アイデンティティの危機を乗り越えるのはそんなに簡単なことではないと思います。実際には、アイデンティティの危機は野宿しなければならなくなった直後が一番強いものであるはずです。野宿生活が長引けば、否定的なものであれ、自分が置かれた状況を受け入れていく必要があります。野宿生活をするようになって数日のうちに何らかの支援に繋がって、とりあえずのシェルターを得て、生活再建を始めるというようなことであれば、「野宿生活自体を解消することでアイデンティティの危機を回避した」と言えるかもしれません。しかし、実際には支援につながらないまま野宿生活が長期化する人も多いでしょうし、かつては、結びつく支援そのものが乏しかったはずです。

 善意の支援者は、野宿生活が長期化するまで支援に繋げられないことに忸怩たる思いを抱きながら、困っている人がすぐに支援に結びつき、野宿状態から抜け出せる仕組み作りを考えるでしょう。支援というのは問題が発生した後に、その理解をともないながら成立していくものなので、対症療法のようなところがあり、対応には時間差ができてしまいます。

■問題は解決できるのか

 さまざまな野宿者支援の仕組みが作られ、厚生労働省の概数調査を見ても、野宿者数は減り続け、2003年の25,000人台から、2020年には4,000人を切るまでになっています。17年の時が経過して、しかし、野宿生活をする人はそれなりのボリュームで存在することがわかります。また、2003年から2020年の間に21,000人、2003年と比べて1/8までに減少したと言っても、同じ人が野宿し続けているわけではありません。野宿生活から抜け出した人もいるだろうし、野宿生活のまま亡くなった人もいれば、新たに野宿生活を始めた人もいるはずです。

 野宿者問題の解決とは何でしょうか? 野宿生活をしなければならない人がいなくなることなのだとすれば、野宿生活から抜け出す仕組み作りが必要なだけでなく、野宿生活をしなければならなくなる原因を取り除いたり、そうならないような仕組みを作る必要があります。

 しかし、どうすればそんなことが可能なのでしょうか。もしかしたら、解決など不可能なのかもしれません。あるいは、解決が可能だとしても、その実現に長い時間が必要であれば、その間に救えないまま、見過ごされる人も出てくるでしょう。

 もちろん、すべての人を救おうということ自体、不可能なことだし、おこがましい考えかもしれません。私たちはついつい、理想の未来を思い描いてしまいます。しかし、理想とは必ず実現できない部分を残すものです。第2回で触れたように、何不自由なく暮らしているように見える人でも、自分の中で折り合いをつけている部分はあります。そのような不条理との付き合い方を考えなければならないのは、人間の生の必然とも言えるものです。

■野宿者問題を関係性を通して読み解く

 問題解決とは実際には不条理との折り合いの付け方なのだとしたら、私たちが向き合おうとしているのが、どのような不条理であるのかを考えなければなりません。そして、前回、野宿者問題の不安定さとして見たように、野宿生活、野宿者問題自体が入り組んでいる上に、ある一時点をとらえても、次の瞬間には不意に姿を変えてしまうような、とらえどころのないものです。

 そういったとらえどころのないものをとらえるには、関係性に注目する必要があります。そもそも、第4回で「野宿者という立場自体、野宿者でない人からの視線によって成り立つもの」であると言ったように、野宿者も野宿者問題も、複数の立場の間で起こっているものを読み解かなければとらえられないものなのです。そして、そうした関係性を通して読み解けば、さまざまな不条理の広がりと、そのからまりも見えてきて、思いもよらぬ問題の所在が明らかになったりするかもしれません。(2021年8月21日(土)更新)

第7回 野宿者と支援者の関係性

別に読まなくていい今回の独り言

1)不法占拠という言葉には昔から一貫して同じ違和感がある。「違法」だとは言わない。「不法」とは何だろう。おそらく「法的な根拠がない」ということなんだろう。しかし、法的な根拠がないことなんて、いくらでもあるはずだ。

2)なんかたまに分からなくなるんだけど、根拠があれば正当化できる排除があるのだろうか。排除という言葉には、われわれが意識しきれていない部分がかなりあるんじゃないだろうか。

3)第7回はどうなる。まったく新しい視点を思い切って放り込めたらいいのだけれど。書けばゴールに近づくという実感がもう一つわかない。もちろん、ごくごく当たり前のことでも、とにかく文章化していけば、ぼんやりしていたものがはっきりするし、まとめ直すにしても、元となる文章があったほうがやりやすいから、次善の策として「ゴールに近づく」と評価できなくもない部分もあるのだが、それは節約に近いもので、収入そのものを増やすことではない。とりあえずその節約をしながらでも、手数を増やしていくのも現実的な対応だろう。