野宿者支援の社会学

第7回 野宿者と支援者の関係性

 野宿者問題を関係性を通して読み解くとなると、野宿者と支援者の関係性について扱わないわけにはいかないだろう。

 というわけで、このような回を最初に持ってきました。必要だろうということで、そうしただけで、何を書くかは考えていません。書くべきことが書かれるのでしょう。

■社会の成り立ちを関係としてとらえる

 社会の成り立ちを関係としてとらえる立場は社会学の中で珍しいものではありません。G.H.ミードに端を発する象徴的相互作用論やH.ベッカーのラベリング論、アーヴィング・ゴフマンの相互行為の社会学のほか、構築主義的な研究も含まれるのではないでしょうか。

 そのように言ってみたところで、僕はそのどれかの専門家というわけではありません。社会の成り立ちを関係としてとらえることで明らかにできること、語れることがあるのだと思っているだけです。そして、それは何か普遍的に通用する方法でもなければ、万人の役に立つようなものでもありません。

 僕がやろうとしているのは野宿者の成り立ちを関係を通して明らかにすることで、その結果として社会の成り立ちが明らかになるだけです。すべてをこの一点に捧げて見えてくる構図は、しかし、結果として多くの人に社会一般の理解をうながすでしょう。

 僕たちが見ている社会とは、常に僕たち一人ひとりが見ている社会です。誰かの考えに影響を受けていたり、常識的な見方というものがあったとしても、見えている社会は、その人に固有のものとして理解されるしかありません。その人に固有のものとして理解されるしかない社会について、他人と何かを共有しようと思えば、自分自身を関係の中で生きている存在として位置づける必要があるでしょう。

■野宿者の生成

 第1回から繰り返し述べていることなので、もういい加減これを最後にしたいと思います。野宿者という立場自体、野宿者でない人からの視線によって成り立つものであり、この視線は否定的なものでした(第4回)。野宿者という立場は、野宿者を見る人と、野宿者と見られる人という関係が成立するところで生成されるものです。

 ここでは野宿者と言っていますが、ここに入るのは、その言葉で見られる人を否定的に位置付けるよう用いられる言葉であれば、何でも構いません4)。「変なやつ」「怪しいやつ」「不審者」といった一般的な形容に留まるものでも構いません。とにかく、誰かが誰かを、そうとしか扱いようのない何かとして位置付け、その位置付けは呼び名を与えられることで固定化されるのです。

 私たちはまっさらな世界に生まれてくるわけではないので、誰かを位置付ける時に採用される言葉はすでに用意されているかもしれません。だから、野宿者はホームレスでもいいし、浮浪者でもいいし、乞食とか、ヨゴレとか、位置付けたい内容にしっくりくると感じるものであれば何でもいいのです。

 ここで僕が「野宿者」という言葉を使うのは、これがわりと意味のない言葉だからだと思います6)。もちろん、「野宿者」は、支援者のなかでは、それとしてあえて使われる、意味のある呼び名です。しかし、多くの人にとって馴染みのない言葉でもあるので、とりあえずの通称名として流通させておきたいと思います。

 このようにして生成された野宿者に対して、支援という目的を持って関係を持とうとするのが支援者です。

■野宿者支援の成立

 さて、この繰り返しも、いい加減これで最後にしたいところです。支援というのは、何らかの問題を抱えている人たちに対して、その問題解決の手助けをすることで、これは野宿者ならぬ支援者が、野宿者をどのように見ているかにかかわってきます。

 野宿者支援の成立には、支援対象である野宿者の成立が先立つはずです。すなわち、野宿者を見る人と、野宿者と見られる人という関係が成立するところで野宿者が生成された後の出来事ということになります。ややこしいのは、これは野宿者支援の成立する前提の成立だということです。

 野宿者支援が成立するためにはやはり、支援をしたいと思う人と、その支援の対象とされる人との関係が成立する必要があって、この関係が成立するところでは、やはり野宿者が生成されます。ここで生成される野宿者は、最初に生成された野宿者とは 異なるものです。すでに生成された野宿者という立場を前提に、支援者と野宿者の間で改めて作り直される野宿者像ということになります。

■野宿者問題の成立

 では、野宿者問題はいつ成立するのでしょうか。野宿者問題の成立は野宿者という立場の生成と同時に起こるものも考えて良いと思います。野宿者が生成するきっかけになるのは、ある人がある人を否定的な存在として見るところにありました。つまり、野宿者という迷惑な存在を誰かが発見するということは、そこに問題を見出しているということで、野宿者の生成と野宿者問題の成立は同時に起こっていると考えられます。

 正確には、同じように問題を見出した人たち同士が、それを野宿者にかかわって起こる共通の問題だと認識するところで、本格的に野宿者問題が始まるのだと言った方が良いかもしれません。

 問題とは、望ましくないこと、解決すべきこととして対象や出来事をとらえることですから、その解決への取り組みが続いて起こってきます。それは公共空間で寝ている野宿者を追い出すために水を撒いたり、障害物を設置したりといったいった、個別の対応として始まるのかもしれません。問題解決にはそれなりの労力やコストもかかるでしょうから、迷惑な存在がとりあえず自分の生活圏から出ていくか、許容範囲内に落ち着くことを目指して取り組まれるものと思われます。ここでは、野宿者問題と言っても、実は問題を抱えているのは野宿者の方ではなく、野宿者の存在に悩まされている側であるところに注意が必要です。

 そのように考えると、野宿者問題も一口に言っても、支援者にとっての野宿者問題は質的に異なるものであることがわかります。支援者にとっての野宿者問題では、問題を抱えているのは野宿者の方になります。つまり、問題のとらえ方がまったく異なるし、野宿者とのかかわり方も異なります。

 とはいえ、どちらも野宿者問題という言葉の中に含めて語られるであろうことは変わりません。野宿者という立場そのものが関係性の中から生成されるものであり、野宿者問題とは、野宿者という対象との関係で見出された何らかの問題の総称であると言えるでしょう9)

■野宿者と支援者の関係性

 野宿者と支援者の関係性と題してスタートしたにもかかわらず、関係性に踏み込む手前の枠組みの整理で終わってしまいました。何をやっているのでしょうか。しかし、関係性を読み解くには、こういうまどろこしい作業がどうしても必要になります。「何を当たり前のことをくどくどと」と思われるかもしれませんが、ふだん当たり前にしていることの意味を読み解くためには、当たり前のことをくどくどと考える必要があるのです。

 というわけで、次回は支援者が野宿者にアプローチする場面へと、もう一歩、議論を進めたいと思います。(2021年8月22日(日)更新)

第8回 野宿者へのアプローチ

 

■別に読まなくていい今回の独り言

1)自分自身に対して無責任になるというのが、不思議としっくりくるのは何故だろう。めちゃくちゃや。

2)書いている本人がこの先、何が出てくるのだろうとわくわくしているような展開が望ましい。無責任にならないとそんなことは書けない。

3)そんな頑なにならんでも、使えそうな方法や理論があれば使ったらいいよな。

4)ソシュールの言語学みたいなことを想定してるんだと思うけど、言語化するだけの力量がない。

5)なんか、あれだな。人生そのものもそうありたいものだ。

6)ありゃりゃ、西澤さんと同じようなこと言ってしまってるな。

7)僕の関心は、片桐雅隆の認知社会学の構想とかと結構親和性あるんだろうな。自己と関係するものとしてのカテゴリーへの着目、そしてそこから社会の成り立ちを解明しようとするわけだ。

8)えーと、どう説明すればいいんだ? 時系列が混じり合ってしまうな。

9)なんか構築主義的な整理をした方がいいんだろうか。中根・狩谷辺りを参照してみるといいかもね。

10)時間のない日も、ちゃんと1回分書き進めててえらい。我ながら努力家である。つらい。