野宿者支援の社会学

第11回 釜ヶ崎について

 この後に起きたことをお話しするために、釜ヶ崎について説明しておく必要がありそうです。

 前回出てきた「センターの日」も含めて、本編に必要な範囲で整理しておきましょう。

■寄せ場の成り立ち

 慣習的に路上求人が行われる場所のことを「寄せ場」と言います。仕事はあるのに働き手がいないという時に、とりあえず人員を確保しようと思ったら、求人をかけなければなりません。しかし、今日、明日すぐに働き手が必要だとなれば、そんな手続きを踏んでいる余裕がありません。そんな時には、知り合いの伝手を使ってどうにかかき集めるしかないでしょう。

 それでも集め切らないとなれば、仕事はしたいけど仕事をする伝手がないという人を見つけて、声をかけるでもしなければなりません。街中に出かけて、暇そうにしているか、仕事がなくて困っている人が溜まっていそうなところへ行って、「仕事あるけど、行かないか?」と誘うのです。

 そんなことを繰り返しているうちに、「あそこに行けば仕事がもらえるかもしれない」「あそこに行けば仕事を欲しがる人間がいるはず」という双方の期待がうまく折り合って、路上求人が行われるようになるというのが「慣習的に」という説明の意味するところです。そのような場所が寄せ場です。

■日雇労働者の街・釜ヶ崎

 釜ヶ崎は寄せ場であるとともに、寄せ場で仕事を探す人たちが利用する簡易宿所(ドヤ)が集まる日雇労働者の街(ドヤ街)でもあります。

 1980年代は釜ヶ崎がもっとも活気のあった時期だと言われています。1990年代に入って、バブル経済の崩壊にともなって、釜ヶ崎の仕事は減少し、野宿生活を送る人が増えました。これ以前に野宿生活をする人がいなかったわけではありません。しかし、これは今日まで続く日本社会におけるホームレス問題の始まりとなるものでした。

 釜ヶ崎の住人の中にも生活保護を受ける人たちが増え、簡易宿所は生活保護で暮らす人たちのための福祉アパートに転業していきました。このような動向を見て、かつての労働者の街は、すっかり福祉の街になったなどと言われるようになりました。

■釜ヶ崎と野宿者支援

 野宿生活を送る人たちは、釜ヶ崎の外に広がっていきました。釜ヶ崎で働いた経験のない野宿者もたくさんいました。それにともなって、野宿者支援に取り組む団体も生まれてきます。

 野宿者支援団体の中には、もともと釜ヶ崎で活動していて野宿者支援にも手を広げていったというものもあれば、最初から野宿者支援を目的に作られたものもあるでしょう。しかし、いずれにしても野宿者支援を志す人が釜ヶ崎とまったく関係を持たないということは、あまりないと思います。

 なせなら、野宿者問題や貧困に関心を持つような人は、すでに釜ヶ崎を経験している場合が多いでしょうし、野宿者支援をしていれば、その過程で釜ヶ崎の団体や施設と関係を持つようになるからです。

 大阪の場合、野宿者の中に釜ヶ崎の労働者だった人が多かったり、釜ヶ崎で働いたことはなくても、釜ヶ崎の施設や支援団体を利用するといったいったことがあります。公的なホームレス対策も、釜ヶ崎対策に関わっていた組織やそのノウハウが活用されるため、釜ヶ崎と野宿者支援は切り離して考えられないようなところがあります。

 労働者の街として活気がなくなっていても、釜ヶ崎の街の存在感は決して小さくはありません。

■釜ヶ崎の魅力に引き付けられた人たち

 釜ヶ崎の活気とは、労働市場としての活気に支えられたものだったと言えるでしょう。ここが労働者の街であれば、それは当然のことです。しかし、釜ヶ崎は単に使い捨ての労働力が集積された場所ではありません。そこに同じ境遇の人たちが集まり、生活を共にする場所だからこそ、活気が生まれたのです。

 1961年の第一次暴動をきっかけに釜ヶ崎は危険な街と見なされるようになりました。しかし、大阪の「釜ヶ崎」「西成」といえば、近寄ってはいけない怖い場所として語られると同時に、得体の知れない魅力を秘めた場所として多くの人たちを引き付けるものでもありました。それは、排除や偏見にさらされ、厳しい生活のなかでも、それらに抗い、跳ね返して生きようとする釜ヶ崎の住人たちの営みが生み出す魅力だったはずです。

 釜ヶ崎の労働運動やさまざまな社会活動は、釜ヶ崎に何か解決すべき問題を見い出すと同時に、そのような釜ヶ崎の魅力に引き付けられた人たちが、釜ヶ崎の住人たちと混じり合う中で形作られたものだと言えるでしょう。

■西成特区構想構想とまちづくり体制

 労働市場としての釜ヶ崎の縮小の背景には、寄せ場以外の求人手段の普及がありました。無料の求人情報誌やインターネット求人サイト、個人個人が所有するようになった携帯電話などを活用すれば、日雇労働者の街を作る必要がなくなっていったのです。

 労働者の街というより福祉の街という色合いの強まった釜ヶ崎でしたが、野宿者支援とのつながりもあって、その存在感が衰えるということはありませんでした。しかし、簡易宿所の中にはバックパッカー向けのホテルに方針転換するものも見られ、若い労働者の流入も少なく、高齢化が進む釜ヶ崎では、将来を見据えた変化が模索されるようにもなっていました。

 そのような状況で2012年に大阪市が突如発表したのが西成特区構想でした。西成特区構想という名前こそついているものの、これは実質的な釜ヶ崎対策であり、釜ヶ崎潰しです。日雇労働市場として不要となった釜ヶ崎に政策的に手を入れて、周辺地域を含めた再開発を進めようという意図が見て取れました。

 もちろん、釜ヶ崎に関わる人びとが、まずそのことに思い至らないはずがありません。そこで、西成特区構想は、あいりん地域(釜ヶ崎を行政施策の対象地域とする際の呼び名)のまちづくりの取り組みとして、地域住民や運動団体・支援団体の代表者に働きかけました。行政からの施策の押し付けにならないように、地域の声を反映するまちづくりの場を設けようというのです。

 「そんなものには協力できない」と突っぱねる団体もありましたが、参加しなければ勝手に決められてしまうと、釜ヶ崎で活動する多くの団体が会議のメンバーに加わりました。釜ヶ崎潰しの片棒をかつがされるリスクは承知の上で、誰かが内部から歯止めをかける必要もあるでしょう。

 いくつかの取り組みが先行して進められる中で、地域住民と運動団体・支援団体の主だった代表者が一つのテーマを共有して話し合う会議が設けられました。それが、あいりん地域のまちづくり検討会議です。この会議のテーマは、あいりん総合センターの建て替えについてでした。

■作られた方針

 この会議は最初からおかしなものでした。釜ヶ崎のまちづくりについて話し合うのはいいでしょう。しかし、そのテーマがセンターの建て替えである意味が分かりません。また、釜ヶ崎の労働者のための施設であり、労働者の街の中核とも言えるセンターについて、当の労働者の意見を聞くでもなく、またセンターの利用者でもない地域住民が加わるというのは、おかしな話です。

 「地域の声を反映する」と言えば聞こえはいいものの、結局、話し合うテーマから参加者まで、その機会を設定するのは行政関係者であり、その時点である程度、方針が作られてしまっているわけです。そもそもそれがまちづくりの会議で扱うべきテーマであるのかどうかも問われないまま会議は進行し、2014年9月から12月にかけての6回の開催を経て、センターの建て替えが決定されました。

■まちづくりから排除されているもの

 すでに述べたように、この会議にはそもそも本来の釜ヶ崎の住人の参加がありません。現役の労働者はもちろん、労働者として長年働き、野宿生活を送っていたり、生活保護を受けるようになっても釜ヶ崎で暮らしている人たちに対する配慮はないのです。

 また、釜ヶ崎の地域外で活動する団体は、そもそも参加資格がありません。まちづくりなのだから、地域外の団体に参加資格がないのは当たり前のように思われるかもしれません。しかし、野宿者支援団体の多くは釜ヶ崎との関係を持っているし大阪城公園で野宿者支援を行っている僕たちも、西成特区構想の動向には内心穏やかではいられませんでした。

 地域外の人間という意味では、今はどこかに働きに出ていて釜ヶ崎にいない労働者や、将来生活に困って釜ヶ崎に訪れるかもしれない人びとの存在も考慮されていません。もともと釜ヶ崎の住人は、通常の意味での定住生活をしているわけではありません。仕事や生活手段を求めて、あちこちを移動しています。

 釜ヶ崎は、そのような境遇に置かれた人たちの拠り所のような場所です。まちづくりの体制として、物事が進展すればするほど、こういった人たちにかかわる領域が切り詰められていくことが懸念されます。

■釜ヶ崎の住人にとって釜ヶ崎とは何なのか

 あいりん地域のまちづくり検討会議は、2015年からは、あいりん地域まちづくり会議と名前を変え、センターとセンター周辺にかかわる四つの議題に分けた検討部会(2017年から五つ)に再編され、議論が継続されました。そして、2017年9月にはセンター建て替えに向けた、閉鎖・解体のスケジュールが発表されました。

 釜ヶ崎の住人にとって、釜ヶ崎とは何なのでしょうか。そもそも釜ヶ崎の住人とは誰でしょうか。釜ヶ崎の住人とは、ただそこに住んで暮らしている以上の広がりを持っていて、かつ実体としてとらえらる範囲を越えています。釜ヶ崎の住人とは、釜ヶ崎を拠り所にして生活する人たちのことで、それは、そのような境遇としてとらえるべきものです。

 しかし、そのような境遇がいかなるものであるかを理解するには、どのような意味で釜ヶ崎が拠り所であるのかを知る必要があるでしょう。まちづくりの関係者からも、釜ヶ崎について「誰でも受け入れてくれる街」「再チャレンジできる街」といった言葉が聞かれます。しかし、その「誰でも受け入れてくれる」とは、どういうことなのかは、はっきりしません。

 このはっきりしないものの正体をつかまえるために始めたのが僕たちの「センターの日」でした。(2021年8月27日(金)更新)

第12回 センターの日常

 

■別に読まなくていい今回の独り言

1)あー、インサイダーとアウトサイダーの話への伏線も張っておいた方がいいのかな。

2)惰性で釜ヶ崎の説明を長々としてしまっている……。

3)寄せ場の歴史を説明し直さなければならない時代になっている。

4)釜ヶ崎のまちづくり体制そのものを、野宿者問題に内在するの潜在的な排除の構造を示す素材として位置付けることができるかもしれない。

5)そうか、もはやまちづくりがジェントリフィケーションであることは明白で、それを否定したり、ジェントリフィケーションを意識している演技をする必要もなくなったんだな。もはや山場は越えたと安心している。良くも悪くも目処がついてほっとしている。肩の荷が降りたと。先行きが見通せない状況であればこそ多少センシティブにもなっていたが、むしろ役目を果たし終えた気分になっているかもしれない。こうなると、反ジェントリフィケーションの側も、敵は即物的な排除の実力行使が残されるのみということになる。本当は、情感に訴えて状況を変えていかなければならなかったが、情感に訴えやすい時期は過ぎてしまったというわけだ。ゆえに、これまでに何をしてきたか、何を見てきたかが問われる。

6)おや驚いた。ちゃんとインサイダーとアウトサイダーの話の伏線が出てきたよ。

7)「センターの日」の説明が難しい。必要最小限というのが難しいし、自分の中で割り切れてないところが、まだありそうだ。

8)まあいっか。書きすぎなところもありつつ、必要なロジックを絞り出していくところに、このやり方の意義があるのだから。