野宿者支援の社会学
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第12回 センターの日常 今回は「センターの日」の取り組みと関連した彼との交流を通して、センターの日常について書いていこうと思います。 その前に「センターの日」について、もう少し説明が必要でしょう。 ■「センターの日」の目的 「センターの日」は、センターを利用する人たちの声を聞くために始めたものです。前回説明したまちづくり会議によって、センターの建て替えが決められました。この決定は、労働者のための施設であるにもかかわらず、労働者の意見が反映されないまま進められたことになります。 2017年9月にセンター建て替えに向けたスケジュールが公表された時に、センター利用者に対する聞き取り調査が行われることも明らかになりました。すでに決定した後に聞き取りを行なうということにもう欺瞞を感じますが、センターを利用している人たちにとって、センターがどのような意味で大切なのかは、聞き取りではとらえきれないのではないかと感じました。 また、地域外の人間は部外者扱いされてしまう、まちづくり体制の中で、僕たちの中にも「釜ヶ崎のことは釜ヶ崎でしっかりやればいい。立派な運動団体がたくさんあるのだから」という気持ちがありました。しかし、センターが閉鎖される時期が具体的に示されると、このままずっと傍観者として批評していていいのだろうかと思えてきました。 すでに述べたように、センターは労働者の街の中核、要になるような場所です。そのセンターが建て替え後、どんなものになるのかも分からないまま、当事者を置いてけぼりにして閉鎖されてしまうのは、釜ヶ崎の街を根本的なところから破壊してしまうような危機的なことだと思えました。また、釜ヶ崎は野宿者支援とも深い関わりのある場所ですし、僕たちにとっても他人事ではないはずです。 ■「センターの日」の戦略 「センターの日」は、まちづくり体制に欠けている労働者の声を聞くということと、まちづくりが進展する状況への地域外の人間による関与のきっかけを作り出すという二つの目的を持って始められました。 僕たちが理解しなければならないのは、釜ヶ崎の住人が共有する境遇がいかなるものであり、どのような意味で釜ヶ崎が拠り所であるのかということです。そして、これを理解するためには、聞き取り調査のようなものではなく、釜ヶ崎の住人の日常に入り込む必要があると考えました。 そこで、毎月第三土曜日の午後、センター1階の一部を占拠して、コーヒーとお菓子などを提供しながら、その反応も含めて、センター利用者の声を聞いていこうと考えました。センターとは、そういう無茶が可能で、またそれが受け入れられる場所なのではないかという予測もありました。つまり、「センターの日」がどのように受け止められるのかも、釜ヶ崎が釜ヶ崎の住人にとって、どのような場所であるかを理解するヒントになるはずだと考えたのです。 ■センターの暮らし それからしばらく、彼はセンターで暮らしていました。昼間はセンターで、夜は夜間シェルターで過ごすという人もいますが、彼はシャッターが上がっている日中は3階にいて、15時頃にセンターの北側の軒下の路上で寝る準備を始めるのだと言っていました。 再会した時は驚いたものの、それ以降ぐっと交流が深まるというものでもありません。
この古本放出はものすごく好評でした。座り込んで物色する人の姿が絶えず、釜ヶ崎の労働者の読書熱の高さに驚かされました。一回でやめるのはもったいないので、その都度本を集めて毎回やるようにしました。彼も毎月楽しみにしてくれていました。
廃品回収をしたり、何らかの現金収入を得る雑業をしていても、野宿生活は退屈との闘いのようなところがあります。彼らにとって、読書は効率のいい時間潰しの手段なのでしょう。 たかだか月に1回の機会でしかないという限界はあるものの、「センターの日」をしていると、立ち寄ってくれた人の話をひとしきり聞けることもありました。うっすらしたものですが、センターを利用する人たちの暮らしが垣間見える瞬間があります。 古本放出を始めたことで、彼と本についての話題ができましたが、それも毎度毎度そんなには広がりのあるものではありません。路上での一期一会よりは持続性があるものの、目新しいことが起こるわけでもありませんでした。
しかし、これが当たり前のセンターの暮らしでもあるのだと思います。大したことをしているわけでもない「センターの日」に対して、「毎週でもやって欲しい」「ありがたい」と言われることが多いところからも、このことがうかがえます。 ある時、キリスト教団体のフィールドワークの手伝いで、早朝のセンターを訪れたことがあります。しばらく後に彼のところに行くと、最初から僕の姿を見つけていて「こんな時間にどうしたんだろうと不思議に思っていた」と言っていました。この日以外にも「◯日の◯時頃にここを通らなかったか」と聞かれることも何度かありました。 普段、野宿者はじろじろ見られる側の存在だと思っていましたが、一方で彼らは路上から、目の前の風景をものすごく見ているのだと気付かされました。これもまた、やることがない、やれることがない野宿生活の退屈な時間の重さを物語っています。 ■センターの閉鎖について センターの閉鎖は2019年3月末だと言われていました。「センターが閉鎖されたらどこかよそへ行かないといけない」「どこででも何とかなるわ」といった言葉がセンターで休む人の口からは聞かれます。常に「最悪どうなるか」を念頭に、それがいつ起こるのかを考えているのでしょう。 センターが閉鎖されたとしても、「センターの日」は続けるつもりでいましたが、労働者の方は「センターの日」もセンター閉鎖までだろうと決め込んでいるようでした。彼はセンターが閉鎖されたら、大阪城公園の近くの例の公園にまた行こうかと考えていると言っていました。いよいよ3月ともなると、「センター閉鎖後はみんなシャッターの前に陣取るしかないな」という声も聞こえて来るようになりました。 しかし、センターは予定通りには閉鎖されませんでした。センターの閉鎖に疑問を抱く人たちが、釜ヶ崎内外から集まり、3月31日の18時以降、所々降りたシャッターもありましたが、センター1階は24時間開放状態になったのです。 開放状態になったセンター内には、支援のテントが立てられ、昼夜問わず、人びとが滞在する場所になりました。 彼はと言えば、センターの中には入らず、連れの人と一緒に、普段から野宿していたシャッターの降りた北側に常宿を構えたようでした。(2021年8月28日(土)更新) ■別に読まなくていい今回の独り言 1)あと2回で何をどこまで書いたらいいの。センターの日常。センターがどんな場所であるかを、彼との関係だけを通して物語る。また、それは「抗い」の形をとらえるための準備でもある。 2)どこで切るか難しい。あんまセンターの話はせんでええやろ。 3)2回で収めるのは無理だろう。単純に出来事としてボリュームがありすぎる。3回くらいに分けないと、必要なエピソードを拾えない。縮められない。 4)このまとめ方は悪くないように思える。後は、センターの話を野宿生活の話として回収する経路を間違わないこと。センター、もとい釜ヶ崎と路上・公園は微妙に位相が異なるから、それを書き分けつつ、路上の権利の意味を炙り出さなくてはならない。 5)これもセンター(釜ヶ崎)をとらえる時の要点の一つになることだが、労働者という言葉をどこまで操作的に用いるか。操作的に用いるのは前提なのだとしても、解説が過剰になるとセンター側に話が引きずられてしまう。野宿生活側に引き付けるためには、これが尊厳にかかわるものであることを示す必要があるだろう。実存と言っても良い。 |
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