野宿者支援の社会学
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第13回 センター閉鎖後のこと センターが閉鎖された後も、2021年8月現在まで「センターの日」は続いています。今やセンターが閉鎖されるまでにやっていた回数を軽く上回るほどになりました。 いったんは閉鎖を免れ、24時間の開放状態となったセンターでしたが、2019年4月24日(水)に何の告知もなく、警察の機動隊と大阪府職員による強制排除があり、無理やりシャッターが降ろされました。 その後、センターの軒下には野宿する人たちが常駐するようになりました。センター内に支援テントを立てていた人たちによって、団結小屋と呼ばれる支援のテントも立てられ、活動を続けています。 ■閉鎖直後 彼はセンター開放中から移していた寝場所にそのまま居座った形になります。最初から占拠闘争がずっとうまく行くとは考えていなかったのでしょう。また、センター軒下での暮らしも長くは続けられないだろうと考えているような口ぶりでした。占拠闘争とも距離を置こうとしているようでした。 それから、また意外なタイミングで彼と顔を合わせることになりました。2019年5月中ほどに「センターの日」があった後、その月末の日曜日は月に1回の大阪城公園の寄り合いでした。いつもは大阪城公園でやっているのですが、この月は夜回りのコースにもなっている例の公園です。というのも、6月27日・28日に開催予定のG20の警備拠点がこの公園に設けられる関係で、排除が強まる懸念があったため、様子見と声かけも兼ねて、こちらにしました。 12時半頃から寄り合いの準備をしていると、公園の外の通りをカートを引いて歩く男性の姿に気づきました。見ると、彼でした。 声をかけると、金曜日の早朝にセンターを出てきて、2日ほど浪速区の公園にいたけど、やっぱりこの公園の方がいいなと思って、今から場所取りに来たということでした。今日はここで寄り合いやるからよかったら来て下さいとお誘いしました。寄り合いは盛り上がっていましたが、遠慮しているのか来られないので、藤棚のところまで差し入れに行きました。 話を聞くと、寄り合いに来ている顔ぶれの中に、会いたくない顔を見つけたので近寄るのをやめたといいます。その人は、大阪城公園で野宿している人で、以前は仲が良かったのだが、2年くらい前から折り合いが悪くなったということでした。 センターを出たのも人間関係があったそうです。知り合いが2日にいっぺん、お酒を手土産に尋ねてきてくれるのだが、それに付き合うのがしんどかったのだと言います。 彼はしばらくこの公園にいたようで、6月頭の夜回りでも会いました。6月の「センターの日」の時はまだセンターに戻っている様子はありませんでしたが、6月下旬の夜回りでは会いませんでした。 7月中旬に所用で釜ヶ崎に行った時には元の場所に戻っていました。「G20に負けました」と笑っていて、話を聞くと、いったん少し南の方の別の公園に寝床を移したものの、そこにも警官がうろうろしていて落ち着けなかったそうです。 ■彼の行動範囲と交友関係 ただこれだけの出来事ですが、普段の彼の生活について、うかがい知ることができます。 これまでの彼との交流をふりかえると、センターにいる期間が圧倒的に長いのですが、必ずしもセンターに執着しているわけではありません。 これには二つの意味がありそうです。一つには居所を一ヶ所に定めてしまうと、急遽そこにいられなくなった時に困るということです。センターについても、安定した居場所のように見えて、常に最悪の事態を念頭に先行きを考えていることがわかります。 次に、寝場所を変えるのは人間関係の微調整でもあるということです。一ヶ所にずっといることで人間関係ができるメリットもあると思います。これは僕たち支援者の戦略ともかかわることです。しかし、逆にその人間関係が重荷になることもあるようです。むき出しの野宿生活では訪問者を拒むことができません。 このことと関連して、彼にはいくつか野宿する心当たりがあり、また、その場所ごとに行きずり以上の、それなりに深い交友関係があるということが分かります。 彼の場合、行動範囲を広げつつ、交友関係を保つ野宿生活の型が巧妙に作られていたのです。誰もがこれほどうまくやれるわけではないでしょうが、むき出しの野宿生活の特性を利用しつつ、路上には野宿者独特の生活空間が広がっているのです。 ■僕と彼との関係 再びセンターに戻ってからは、追い出されない限りはとセンターを居場所に定めたようでした。 大阪城公園の近くで知り合い、センターで再開し、また公園、センターと、彼の日常生活の時間と接するなかで、僕と彼との関係は、支援者と野宿者という関係を基礎としつつも、当たり前の交友関係に近づいて行ったと思います。 強制排除の翌日の午前中にセンターを訪問した時、彼から「失礼ですけど、お仕事は何をされてるんですか?」と訊かれました。2日連続で平日の昼間に現れるのだから、もっともな疑問です。大学の非常勤講師をかけもちしているから、授業のない日や授業前の時間など、調整すれば行動の融通は利くのだというお話をしました。
仕事についての質問は、結構思い切りのいるものだったのだと思います。彼がまだセンターに戻っていない時、連れの人に「◯◯さんから、何の仕事しとるんかとか訊かれん?」と訊かれました。
僕が普段何をしているのかについて、彼らの間で話題になっていたようです。それを思い切って聞いてくるというのは、一歩踏み込んだ関係を結んでもいいと思われているがゆえでしょう。 彼は、拾ってきたものを換金するルートを持っているようでした。そうやって入手した余り物を「センターの日」の時に「必要な人に分けてあげて」と言って、たびたび差し入れしてくれました。 「センターの日」の取り組みは占拠闘争とは別物ではあるものの、完全に無関係というわけでもありません。運動とは距離を置きたいと言いつつ、個人的な関係として「センターの日」のことを気にかけてくれることを、とてもうれしく感じていました。 古本の話をしていても、彼の返事がそっけなく感じられたことがありました。もちろん、そんなこともあるのだと思います。支援者と支援対象者という関係の枠組みを基礎とする以上、どこかで話題が途切れてしまうような時があります。しかし、僕たちは時を置きながらもやり取りを続けているし、そういう気持ちをお互いに伝え合っていたのだと思います。 ■「俺たちはどこでもやっていける」 2020年に入ると、団結小屋を含め、センター敷地内で野宿する人たちに対する立ち退き訴訟が起こされました。
立ち退き訴訟で争おうという気はないけれど、実力行使がなされるまではギリギリまでセンターにいようというわけです。 正攻法で闘って自分たちの権利を主張しようという気はないけれど、居座れる限りはごまかしごまかし居座りたいというのが本音です。 彼らはみんな「俺たちはどこでもやっていける」「ここがダメなら他所へいくだけや」と示し合わせたように口にします。これは二つの意味で真実を指しています。 すなわち、ここを追い出されたら困るから、出来るだけ先延ばしにしたいということ、追い出されたら追い出されたで、これまでそうしてきたように何とかするしかないということです。 すでにギリギリのところで生きているという切実さと、自力で何とか生き抜いてやるという意志とが、みんなにこの言葉を口にさせているのです。(2021年8月29日(日)更新) ■別に読まなくていい今回の独り言 1)まあ今回はこんなものだろう。 2)前回まで盛り込まなくてはと思っていたこと、今回書いているうちに忘れてしまったな。何だったかな。「働いてない」の話かな? 3)違う、古本のエピソードにあるような、そっけなさについてだ。書き足した。 4)こうやってエッセイで書いてしまえることなら、なぜ論文にしなければならないのだろう。それは無論、論文でなければ語りきれない部分があるからだろう。そしてそれは関係性を読み解く、相互行為の枠組みと分析手法によるものなのだろう。 5)お互いに直接的な言葉を交わして理解し合うことができない。言葉は、それを口にできる場面が用意されて、それが理解される状況の中でなければ、用いることができない。ただ知っているだけでは、言葉は使えない。お互いの関係性に依拠して言葉は用いられる。時間を置きながらでも、ゆっくりとでも、僕たちはきちんとその言葉を伝えようとしていた、聞こうとしていた。その意志は確かに存在していたのだと思う。しかし、それを直接口にして確かめ合えるようなところまでは時間が許さなかった。届かなかった言葉を、届かなかったからこそ、僕は遅れて受け取ることができた。 6)素朴な本音を口に出せるような場所と関係を作り出さなければならない。ごく当たり前に本音を口に出せない世界で人の尊厳や権利が守られるはずがない。 7)「この人働いてないのかな……と思って(笑)」という言葉については、もう少し掘り下げて考える余地があるかもしれない。僕に対する興味、懐疑心、それを解消しようとする働きかけ。支援者たちが浮世離れしたものとして見られていることを表すものでもある。 |
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