野宿者支援の社会学

第14回 残された抗い

■労働者とは誰か

 労働者を置き去りにしたまま進むまちづくり、センターの建て替え計画は、結局のところ、野宿者を置き去りにするものです。

 僕はこれまで、特に説明もなく、センターを利用する人たちのことを労働者と表現していることにお気付きでしょうか。センターは釜ヶ崎の求人の中核となる場所なのだから、センターを利用するのは労働者に違いありません。

 しかし、センターの3階で休んでいる人たち、閉鎖されたセンターから追い出され、その軒下で暮らす人たちのほとんどは、センターで紹介される仕事に行っているわけではありません。

「にもかかわらず、センターを利用している」

 こうした負い目のような感覚が彼ら自身の中にすでに抱かれています。センター3階で休む人たちは「こんなところにおるわしらが悪い」と語り、特掃を頼みに暮らす労働者は「わしはもう労働者じゃない」と言います。生活保護を受けている人たちは、どこか遠慮がちにしています。

 しかし、センターで仕事を得ているかどうかが釜ヶ崎の労働者であるかどうかを決めるわけではないはずです。

 特掃をしている人、生活保護を受けている人、野宿生活をしている人、彼らのほとんどはセンターから仕事に行っていた人たちです。今現役で働いている人たちがいずれ経験するかもしれない立場が、センターという場所で重なり合っているに過ぎないのです。

 何度も言ってきたように、釜ヶ崎の住人とは境遇を共有する人たちのことであり、これまではそういった人たちのことを労働者と呼ぶことが多かったというだけの話です。

■その境遇をどう理解するのか

 また、このような境遇は釜ヶ崎だけではなく、路上や公園にも広がっていることを、彼との付き合いから理解できます

 しかし、その境遇がいかなるものかをとらえることが難しいのです。その実体をつかまえようと、センター閉鎖後もずっと「センターの日」を続けてきました。しかし、ただでさえ、とらえにくいと分かっているものが、たかが月に一回の「センターの日」を何度繰り返したところで、とらえきれるものではない、そんな焦りが常にありました。

 夜回りや寄り合いにしてもそうです。大阪城公園での活動はもう少し手応えがあります。「センターの日」のアイデアは、大阪城公園でわずかながら得ていた成功体験をふくらませたようなところがあります。しかし、それにしたって、路上生活を肯定的に語るための言葉はなかなか捕まえられません。

 ここが唯一無二の寝場所というわけじゃないし、ここにいる自分たちが悪いのだから、出て行けと言われれば出ていく。俺たちには俺たちの事情もあるが、分かってもらえるはずのないことを語ろうとも思わない。それでも生きていかなくてはならないことは変わらないのだから、ここを追い出されれば、別のところを探すだけだ。

 言ってしまえばこれだけのことです。しかし、これは他人や自分を納得させるための言葉であって、野宿者の本音を訴えるものではありません。野宿者は本音をどう語っていいかわからないし、語れないことの大きな理由として、それを聞ける人間がいないことがあるのだと思います。

 立ち退きを迫る時、生活保護を受けることが勧められるようになりました。野宿せずに済む、野宿よりよっぽどマシな生活保障が提示されていると考えれば、これは野宿者の人権が尊重されている証拠だと言えそうです。

 しかし、生活保護を受けることを拒めば、追い出しがなされるだけです。言ってみれば、野宿者には「生活保護を受ける権利しかない」のです。

 僕たちの社会は、なぜ追い出しをやめないのでしょうか? なぜ代替地を用意しようとも思わないのでしょうか。なぜ生活保護ではなく、野宿生活を選ぶのかを理解しようとしないのでしょうか。

 答えは簡単にして、とらえにくいものです。つまり、第1回にすでに述べているように、僕たちは野宿者や野宿生活のことを理解していないからです。

■突然の死の知らせ

 過酷な野宿生活の中で命を落とす人がいます。センター閉鎖後に亡くなった人たちもいます。

 「センターの日」を続けていても、亡くなった人の顔も分からないことがあります。センターで野宿しているといっても、入れ替わりが激しい上に、訪問した時に必ずいるというわけでもないし、やはりたかが月一回の「センターの日」のかかわりでは、個別の関係さえしっかりしたものを作りきれないのが実際でした。

 2021年2月の「センターの日」の前日、僕は彼が亡くなったことを知らされました。「センターでまた一人亡くなったそうだ」といって、一つのツイートを教えてもらいました。ツイートに添えられた写真の荷物と背景を見て、彼が寝ている場所だと分かりました。

 ツイートには、亡くなった人との直前の交流や、亡くなった時の様子が書かれていて、それを読めば、彼であることを否定する方が難しそうでした。

 突然のことで、まったくリアリティがわきませんでした。何かの間違いなのではという気持ちと、亡くなったのなら供花も持たずに行くわけにはいかないけどと、頭で対応を考えるばかりでした。

 その後、夜回りをしているグループのメーリングリストで彼の名前を確認しました。僕にとってはものすごく悲しいことが起きたはずなのに、涙が出るわけでもなく、どんな気持ちになればいいのか分かりませんでした。

■野宿生活の中の死

 「センターの日」に向かう途中で供花と、彼が「大好物です」といっていた週刊誌を買って行きました。これで間違いだったら、気まずくて仕方ないなと、まだそんなことを考えていました。

 まだ半信半疑のまま、ずっと彼の隣で寝ていた仲の良い人に確認しようと話しかけました。具体的な問いかけをするまでもなく、僕の質問を察した彼は、隣を指差して、大粒の涙を流して声もなく泣き始めました。

 花と週刊誌を持ってお隣さんのところに行く。僕「◯◯さん……」亡くなったと聞いて、と言うまでもなく、そのために来たことはすぐに伝わった。僕が花を持っていることも気づいたろう。

お隣さん「昨日の朝ですわ」

 彼が亡くなったと分かっても、悲しいという気持ちが溢れるわけでもなかったし、涙が湧いて出るわけでもなかった。しかし、話しながら彼が大粒の涙をボロボロ流すのを見て、僕もようやく涙を出すことができた。[2021年2月20日(土)「センターの日」]

 もらい泣きであっても、ちゃんと自分の中には湧き上がってくる悲しみも涙もあるのだと分かって、少し安心したようなところがありました。とはいえ、この後、他の人と彼のことを話していてもあまり悲しい気持ちにはなれませんでした。

 いつものおじさんにあいさつしてビラを渡すと、心得た感じで笑顔で受け取ってくれる。正面で亡くなった人がいるのを知っているかと訊かれる。だいぶ弱っていて、それでもここの簡易トイレは利用しに来ていたが、最近、トイレにも来なくなっていたから、心配していたところだったと。

 「まあ、みんな歳やからな(笑)」「いつか死ぬわ」と笑っていた。「正面のところは入れ替わりが早いわ。この2年で3人くらい死んどるよ。全員入れ替わっとるんちゃうか」。[2021年2月20日(土)「センターの日」]

 すぐ近くで寝ているからといって、野宿者同士が必ずしも仲が良いわけではありません。また、路上の死について、あまりにあっさりした口調で語るので、こっちが面食らうようなこともあります。

 冷たいようにも思えますが、彼らにとっては、のたれ死には他人事ではないし、いちいち深く考えても気が滅入るばかりというところがあるのかもしれません。

 そういう僕も、親しい人の死に接して、しばらくは悲しみのとらえどころも無かったのだから、冷たいと言えば、冷たいかもしれません。

■悲しみのありか

 「センターの日」の後、帰宅してから、彼の死については何か書かないといけないと思いながら、ぼーっとしていました。

 彼の死についての情報はいちいちスマートフォンやインターネットを介したものでした。占拠闘争のメーリングリストでも、彼のことが話題にのぼるのを眺めながら考えていると、翌日になってようやく、自分自身の悲しみのありかがどこなのか、ようやく突き止められた気がしました。

 第10回に書いたように彼との関係に、野宿生活とか野宿者支援といったことを越えて、この街で僕たち二人の暮らしが交わったように感じていました。もちろん、それはどこまで行ってても、野宿者と支援者という関係を基礎にしてはいます。しかし、野宿者と支援者という立場の違いはありつつも、それ以前にお互いを一人の人間として付き合おうとしていたと思うのです。少なくとも、僕にとってはそうでした。

 僕が彼の死に接して、たった一つ感じなければならなかったのは「彼に生きていて欲しかった」ということことだけでした。彼は68歳で、まだ亡くなるような歳ではありませんでした。たくましく、飄々としたポーズで野宿生活を生き抜こうとする彼のことが好きでした。どんな理不尽なものであれ、センターで野宿する彼の人生の方途に現れるものに、僕は僕で向き合いたいと思っていました。

 だから「彼に生きていて欲しかった」というのは僕の偽らざる思いです。しかし、そのように思うことは、すでに十分に苦しんで亡くなった彼に、さらに苦しみを強いるようなものであることに僕は気付きました。最後は救急搬送されたそうですが、彼は直前まで拒んでいたそうです。

 今この時に死が訪れることは、彼自身にとっても想定外だったはずです。彼には生活保護を受けたくない理由があり、過酷な野宿生活の中でも仲間を作り、生き抜く工夫をしていました。そんな彼の生き方を僕は支持していたけれど、やはり過酷なものであることに変わりはないのです。

 だから、亡くなった後に彼に「生きていて欲しかった」と願うことは、僕自身のわがままのように思われました。彼は自分の人生を生き抜いて、ようやく苦しみから解放されたのかもしれません。僕は、僕自身が信じたい野宿生活の理想を彼に負わせようとしていたのかもしれません。

 野宿生活の理想などというと、一気に欺瞞に満ちてくるような感じがしてきます。しかし、それが彼が望む生き方であったことは確かです。ただ、その生き方が終に報われることなど無いかもしれないことを、僕も彼自身も、先延ばしにして、見ようとしていなかったのかもしれません。「最後まで居座るつもりです」という彼の精一杯の現状への抗いすら、もはや果たされることはないのです。

 僕の中に残されたのは、彼の最後の抗いでした。この抗いは、結局は語ることができないものです。語られることのないまま、彼は最後までひっそりと抗い続けたことでしょう。彼に死が訪れることで、ようやくそれは抗いとして僕の中に形を成して受け止められました。受け止めることができたのは、残された僕にとって、彼の死を悼むことが、彼の苦しみを望むことにつながってしまうと気付いたからです。これが僕の悲しみのありかで、ようやく一人で涙を流すことができました。

 ここに来て、僕たちはようやく語り得ないものについて語れるところまでやってきました。(2021年8月30日(月)更新)

第15回 抗いについて語ること

 

■別に読まなくていい今回の独り言

1)何から語り出せばいいのだろう。

2)あれ、これじゃ落ちないな。

3)それでも彼が路上で実現しようとしていたことがあって、実現していたこともあった。それは当たり前のものだったのかもしれないが、僕たちは当たり前に依拠しているその当たり前を分かっていないということだろう。

4)抗いの向こうには目指すべき理想があった。その理想は、ふだんのやりとりの中に現れていたはずだ。

5)交わらなければ、抗いがあることは気付かれない。交わるだけでは、それが抗いであることは気づかれない。気づくだけではまだ理解には結びつかない。僕たちはそこで考えるのをやめてはいけない。