野宿者支援の社会学

第15回 抗いについて語ること

 さて、14回にわたって書いてきた『野宿者支援の社会学』を終わらせねばなりません。野宿者支援とは何でしょうか。野宿者支援とは、まず野宿者がいて、その後に野宿者とかかわる支援者がいて成り立つものです。ゆえに、野宿者支援のあり方は、野宿者と支援者の関係いかんによって変わってきます。

 そして、野宿者は、野宿者を野宿者として見る社会からのまなざしがあって生成されるものですから、野宿者支援のあり方は、この社会のあり方と関わりを持っています。

■野宿者問題の解決とは何か

 まず、これまでの回を振り返っていきましょう。第5回目で「野宿者問題の不安定さ」という話をしました。野宿者問題とは、野宿者が置かれた状態に解決すべき課題を見い出す時に社会に対して提起されるものです。しかし、そこで見出されるところの、解決すべき課題というのは、同じ状態を見ていたとしても異なるでしょうし、どのような状態を見てその課題を見出したのかによっても異なります。

 野宿者と一口に言っても、その暮らしぶり、野宿期間、年齢、性別などによって異なってきます。どんな属性、どんな状態の野宿者から思い描いたかによって、問題としての野宿者像が異なってくるという意味で、野宿者問題は異なった見方を一緒くたに含みます。そのような意味で不安定なものになります。

 第5回では野宿者問題を〈野宿者問題1〉と〈野宿者問題2〉とに分け、〈野宿者問題1〉からの批判的発展として〈野宿者問題2〉を位置付けました。そして、〈野宿者問題2〉を、とにかく野宿生活の解消を目指す〈野宿者問題2a〉と野宿生活を肯定的にとらえる〈野宿者問題2b〉とに分けました。

 〈野宿者問題2a〉は、問題が解決された状態が「すでに可能である」ことを前提とする立場です。野宿生活という状態が問題なのであって、そこから脱出して野宿以前の状態に復帰できれば、問題は解決というわけです。「野宿以前の状態」という理想像が念頭にあるのです。しかし、実際には、時計の針を戻すように「野宿以前の状態」に戻せばいいというものではありません。野宿生活に陥る直前の状態は、すでに野宿生活に陥る危険の高い状態であり、再野宿化することのないようなアフターフォローの必要性も強調されています。

 〈野宿者問題2b〉は野宿生活そのものを否定することはなく、むしろ野宿生活のまま、その人らしい生き方ができることを問題の解決と考えます。では、その人らしい生き方とはなんでしょうか。

■その人らしい生き方とは何か

 野宿者を指して「あの人たちは好きでああいう暮らしをしているんだから、ほっとけばいい」という見解を耳にすることがあります。また「自業自得なのだから、助けてやる必要はない」という意見もあります。

 こういった意見に対して「そうではない。誰もが野宿生活に陥る可能性はあるし、もともと不利な立場に置かれた人たちは、人並み以上の努力をしていても、困窮状態から抜け出せないのだ」という反論があります。野宿者は社会構造に問題があるために生み出されるのだから、その救済は社会的に取り組まれて然るべきなのだというわけです。

 しかし、その救済とは何でしょうか。「野宿以前の状態」に戻るだけではなく、再野宿化することのない状態になるまで生活を保障することでしょうか。それに加えて「その人らしい生き方ができるようになること」といった理念も付いてくるかもしれません。

 ここに一つ落とし穴があるのだと思います。「その人らしい生き方」などというものは、理念として唱えることはできても、達成されたと言い切ることはできません。一度達成されたと周囲や本人が思ったからと言って、そう思い続けることができるとも限りません。

 そもそも「自分らしい生き方ができている」と満足することなど、はたして可能なのでしょうか。そう思える人は幸せだろうし、誰しもがそう感じながら生きられる社会が理想かもしれませんが、そんな社会は決して実現することのない夢物語であることは、ちょっと考えればわかるはずです。

■支援者は何を支援しているのか

 このことは、野宿生活のまま、その人らしい生き方ができることを問題の解決と考える場合も同様でしょう。支援者が野宿者の元を訪れ、関係を作ったとして、その問題の解決は終わることはありません。一人ひとりにとって満足のいく生活の中身は異なるでしょうし、その生活は死ぬまで続くし、満足の形も変わっていくものです。この意味での野宿者支援に終わりはないのです。

 ところで、ここで野宿者支援がやっていることは、はたして支援なのでしょうか。その人が野宿生活の解消を望んでおらず、廃品回収などで現金収入を得て、必要なものは自力で入手できているのだとすれば、支援者ははたして何の支援をしているのでしょうか。実際「支援なんかいらん」と拒まれることは珍しくありません。しかも、拒まれるのにもかかわらず、定期的に顔を出すのは善意の押し付けではないでしょうか。

 人はみな関係の中で生きています。「自分らしい生き方」というのも、いろんな人との関係の中で実現されていくものです。普通に暮らしていれば、それは支援されて実現されるようなものではない、当たり前のことです。そこに支援者が関わってくるのは、やはり支援が必要となるような問題があるからでしょう。

 その問題とは、追い出しであるとか、襲撃であるとかいった、野宿生活に対する社会からの攻撃ということになると思います。もちろん、そういった攻撃に対して、支援者がかかわることで、どれほどの助力ができるかは分かりません。襲撃については、まだ野宿者本人を代弁する形で抗議をすれば、改善の見込みはあるかもしれません。

 しかし、追い出しの場合、支援者がどうがんばっても、排除すると決めた行政の実力行使を防げた試しはありません。それでも、反対することに意味がないわけではありません。これは「反排除」の運動なのです。

 僕が出会った人たちも、「俺たちが悪い」「ここがダメなら他所を探すだけ」などと口にしていました。しかし、これは、見方を変えれば、消極的なものであれ、抵抗であることは明らかでしょう。

 支援者は、野宿者がその人らしい生き方を応援している、つまり支援したいと思っているし、これは大きな意味では社会への異議申し立てになっています。すなわち、その人らしい生き方を認めることを第一義に考えるべきだという主張なのです。

■他者の役割

 野宿者は、支援者などいなくても、そのような生き方を貫く気概を持っているし、一人でも闘い続けるのかもしれません。しかし、そこにそのような信念があること、自分らしく生きていたいという価値の表明があることは、支援者という他者がかかわることで、初めて見えてくるものなのです。

 僕が彼との関わりを持つ中で、彼が生きていた抗いを自分の中に発見したように、他者とのかかわりがなければ、その価値の存在が明らかになることはないのです。

 その価値について、抗いの中にある本人は語ることはできません。彼自身はそれが世間に理解されるものだと思えないし、負い目すら感じているからです。支援者にしても、その価値について野宿者とのかかわり抜きに語ることはできません。誰にでもある権利として認められるべき価値を社会に対して示すためには、他者が役割をはたすことが必要となります。

 このように、野宿者と支援者の関係を通して、野宿生活を否定されることは、野宿者が自分らしく生きる権利を奪われることなのだという背景が見えてきます。

■再び、野宿生活を肯定することに対する批判

 しかし、そんなことを言えば、すぐに、「野宿生活が自分らしい生き方なんてことはありえない。そんな考え方は政府が必要な社会保障を疎かにする後押しにしかならない」などと反論されてしまうでしょう。

 野宿生活はすぐに解消されるべき窮状なのだと言えば、そうなのかもしれません。テント小屋を立てて安定した野宿生活を送れるようになるのは、野宿生活が長期化した後のことでしょうから、幸運な例外事例を理想化すべきではないというわけです。そもそも、そのような状態自体が、言ってみれば、受けられるべき救済が受けられなかった結果なのだから、それを理想化すること自体が政府の不作為を免罪することにつながってしまいます。

 しかし、すでに述べたように、これは「反排除」の運動です。野宿生活を肯定するかしないかが問題ではなく、排除を否定するかしないかが問題なのです。野宿生活をすぐに解消されるべき窮状と考えることと、排除を否定することとは矛盾しません。排除の否定は野宿生活の肯定を必要条件とするわけではありません。

 とはいえ、野宿者の排除を否定するなら、現実的には、野宿者が野宿生活に留まることを、便宜的にであれ、肯定しなければならないでしょう。「好きでやっているんだろう」「自業自得だ」という意見は、実は野宿生活を肯定しています。「本人がいいなら構わない」「自分が悪いのだから、その罰を受けているだけだ」というわけですから、罰であるはずの野宿生活を否定するのはおかしな話です。せいぜい哀れんでいれば良いでしょう。

 もっとも「排除されることも含めて罰なのだ」というなら、話は別かもしれません。しかし、それはまさしく排除そのものです。

 野宿生活はすぐに解消すべき窮状であるとする考え方からすれば、排除を否定することと野宿生活を肯定することは、相反する事態であり、とても受け入れられないことなのでしょう。しかし、そのような矛盾を受け入れて考えなければ、排除を否定することの意味は見えてきません。

■排除に抗すること

 排除を否定することは、その人の存在を絶対的に肯定することです。野宿者にも生活保護を受ける権利は保障されなければなりません。しかし、生活保護を受けなければ追い出される(排除される)というのでは、この社会は大きな欠陥を抱えています。この社会には「こうあるべき」という望ましい生き方が定められており、それに従わない者は生かしてはおけない。そう言っているのと同じです。

 このような社会の欠陥と向き合い、社会を変えていこうと思えば、野宿生活を肯定しながら生きられる道を切り開いて行く必要があります。

 野宿者は、たとえ消極的なものであれ、すでにその道を切り開いていると言えるでしょう。それを社会全体に訴えていくためには、野宿者ならぬ者がその生き方を肯定し、支えていく必要があります。他者が役割をはたしてこそ、この社会には排除があること、あらゆる人の存在を絶対的に肯定することのできない欠陥を抱えていることを示すことができます。

 「こうあるべき」望ましい生き方に「包摂していくこと」は、排除の存在を見えなくしていくことであり、社会を変えていくことでもなければ、排除に抗することではないのです。排除に対抗するものは包摂ではなく、反排除なのだということに、僕たちは気付かなければなりません。

■野宿者が切り開いている道

 野宿者は、すでに社会を変える道を切り開いているのだと言いました。それはどのようなことなのでしょう。答えは、これまで僕と彼がやってきたことを振り返れば見えてきます。

 支援者と野宿者という非対称的な関係にありながら、僕と彼は同じようなことをやっていました。僕たちは、支援者と野宿者という関係を基礎にしながら、当たり前の関係を作ろうとしていました。お互いに、支援者とはどのような存在か、野宿者とはどのような存在かを想像し、関係を構築していくための戦略を持っていました。

 この戦略は、お互いが示し合わせたわけでもないのに、お互いを理解し、お互いが理解する相手についての理解をも、考慮に入れたものでした。その上で、路上で持続的な関係を作り出そうとしていました。

 公園も路上も、もともと野宿するための場所ではありません。しかし、支援者と野宿者は、そのようにしてお互いを想像し、路上を出会いの場に作り替えていたのです。これは、人間関係の構築を通して、その場所の意味を作り替えていたということです。そして、場所の意味を作り替える営みは、場所の意味を規定する社会の圧力を逆転させ、社会を変える方向へ向かうエネルギーを作り出すことでもあります。

 もちろん、そんなことは絵空事かもしれません。すでに述べたように、野宿者と支援者がどうがんばっても、排除すると決めた行政の実力行使を妨げられた試しはありません。だから、僕と彼が共に過ごした時間を経て、僕の中に最後に残されたものは、希望でも理想でもなく、抗いだったのです。しかし、そこに抗いが残るということ自体が、僕たちがともに肯定したいと信じているものの存在を証明しているのです。

 僕たちがともに肯定したいと信じているものは、この世界にまだ存在しないものであり、そういう意味で「語り得ないもの」です。語り得ないものを語ることは、やはりできないのです。しかし、「語り得ないものについて語る」ことはできます。それは、僕と彼の間に残された「抗いについて語る」ことだったのです。(2021年9月1日(水)更新)

おわりに

 

■別に読まなくていい今回の独り言

1)わかったぞー、『野宿者支援の社会学』がどうしてこうもくどくどと、野宿者の生成だの、野宿者と支援者の関係性だのと、理論的なことに前半8回もかけてしまった理由。野宿者支援とは何かを語るには、どうにも過剰な念の入れ方をしたのは、結局この「語り得ないこと」について語るためには、その辺の切り分けが必須だったからだ。

2)さすがに少し慎重になっている。

3)うおー、書けたー!! まじか!!