フィールドワーク論

第7回 『フィールドワークの物語』を読む

■フィールドワークの成果をまとめるための指針

 第2回から5回にわたって、参与観察をベースとしたフィールドワークの成果をまとめた書籍を見てきました。ここからはフィールドワークの成果をまとめるための技術を扱った本を取り上げていきたいと思います。

 最初の一冊として取り上げるのはジョン・ヴァン=マーネンの『フィールドワークの物語——エスノグラフィーの文章作法』です。

 私の手元にあるのは2002年の第4刷なので、大学院の前期博士課程に入る直前か直後くらいに読んだのだと思います。読み始めてすぐに、私は「これは面白い!」と興奮しました。ところが、同じ本を読んだ先輩は「あの本、面白くなかったよなあ」と言っていたので、置いてけぼりを食らったような気持ちになったのを覚えています。

 しかし、そんなふうに興奮しながら読みはじめたものの、結局のところ、自分が論文をまとめる役にはまったく役に立たなかったというのが実感でした。

 これまで5冊の本を紹介する中でも、私はずっとそんなことを言っています。どの本も、気にはなっても、いろいろ不満や物足りなさを感じる部分がありました。ここでやっているのは、その不満や物足りなさの正体を手がかりに、逆に、どうすれば満足できるのかを探る作業だと言ったらいいのかもしれません。

 このコンテンツを通して私は、参与観察をベースとしたフィールワークの成果を満足のいく形でまとめるための指針を示したいと思っています。

 これまで、このコンテンツで取り上げた以外にも様々なエスノグラフィーを読んできたし、フィールドワークの成果をまとめる技術を扱った本もあれこれ読んできました。しかし、なるほどと思うようなことはあっても、肝心なところに手が届かないもどかしさを感じていました。

 その中で、自分にとって「これだ!」と思えた技術の本が1冊だけあります。それなら、その1冊を紹介すればよいようなものですが、ことはそう単純ではありません。その1冊が重要である理由は、他の本にどんなことが書かれていて、それらがなぜ「役に立たなかった」のかを踏まえなければ見えてこないと思います。

 「役に立たなかった」というと、それらの本に価値がないかのようですが、実際には多くのことを学んでいます。しかし、フィールドワークの成果をまとめる際の最後の決め手、核心の部分を語ってくれるものに、なかなかめぐりあえなかったということなのです。

 そういうわけで、まずは「これは使えるかもしれない」と期待させつつ、「これだ!」というところまでたどり着けなかった何冊かの本について、私自身の当時の受け止め方を振り返りながら、読み解いていきたいと思います。

■書くことと考えること

 この本を知ったのは、おそらく佐藤郁哉さんの『フィールドワークの技法』という入門書を通してだったと思います。この本について、佐藤さんの本では次のように紹介されています。

民族誌というのは、ほんらい旅行記、ルポルタージュ、学術文献、小説などさまざまなジャンルの文章の特徴をあわせもつ混成ジャンルの文章であり、文学と科学という二つの領域にまたがる性格をもっているのです。最近日本でもアメリカにおけるフィールドワークの第一人者の一人ヴァン-マーネンが書いた『フィールドワークの物語』をはじめとして、民族誌の文体論に関する本の邦訳が刊行されるようになってきましたが、これはとりもなおさず、民族誌のもつこのような性格に対する認識が高まってきたことを反映していると考えることができます。(わたしたちが『方法としてのフィールドノート』を訳出したのも、同じような問題意識にもとづいていることは、言うまでもありません)。[佐藤 2002: 23]

 ここで触れられている『方法としてのフィールドノート』は次回取り上げるつもりでいます。私がこの2冊をまず読んでみようとしたのは、引用文に書かれているように、どちらも「書く」こと自体にこだわった話だったからなのだと思います。

 大変個人的な話で、他の人がどうなのかは知りませんが、私自身は「文章を書く」こと自体に特別な効用を感じています。というのも、私の場合、何かを考える時に「書きながら考える」ことでうまくいくことが多いからです。

 逆に言えば、書かなければ考えがうまくまとまらないし、アイデアが出てこないといったことでもあります。実は、このコンテンツ自体がそのような特性を利用しながら作られています。このコンテンツを作成していくうえで、最初に全体の設計図があって、それを意識しながら書き進めていくという形式にはなっておらず、何が書けるのかは私自身、分からないまま書いている部分があります。

 もっとも、大まかな指針はあります。「フィールドワークとはこういうものだ」という信念のようなものが自分の中にあることは分かっています。しかし、これは最初から確固たるものだったわけではありません。「フィールドワークとはこういうものだ」「フィールドワーカーはこうあるべき」という思いはあっても、それを他人に対して語れるほどの自信は持っていませんでした。

 では、今は自信を持っているのかという話になりますが、自信を持っているというより、語ることを迫られれば語ることはできるだろうし、それで批判を受けても、批判を引き受けるのも研究者としての責任だろうくらいには思えるようになっています(思えば、すでに序文でもそんなことを書いています)。

 つまり、「フィールドワーク論」という名目で「フィールドワークとは何か」を語るとすれば、フィールドワークという言葉にこだわって研究を続けてきた修行時代に読んできたものを、その当時の実感を思い返しながら、現在の自分の視点から問い直していくことが有効だろうということです。

 そして、私にとって「書く」ことは、「考える」こととイコールになっているようなところがあり、これはそのまま「気づく」ことともつながっています。そういうわけで「どう書くか」とか、「書いたものをどう活用していくか」といったテーマは、とても重要なヒントを与えてくれるもののように思われました。

 そのような期待があってヴァン=マーネンの本を読むことにしました。

■フィールドワークの三つの物語

 ヴァン=マーネンの本では、写実的物語、告白体の物語、印象派の物語の三つについて、それぞれ一章ずつを割いて書かれています。それぞれの章では、ヴァン=マーネン自身がすでに発表してきたものや、未発表の文章が具体例として紹介されています。

 未発表の文章で提出された「実例」はかなりの分量になります。写実的物語は約7ページ、告白体の物語は約12ページ、印象派の物語も約12ページにも及びます。各章は脚注をのぞいて約34ページくらいあるので、章全体の本文の1/3弱を費やされていることになります。

 写実的物語というのは、言ってみれば事実関係の説明です。「私が対象とした集団は、おおよそこういうもので、こういうルールに従って行動している」といった内容を、具体的な事例を交えながら語るものです。

著作物や学問的論文、記事、または記事(か本)のさらに小さな一部などの形で発表された場合、通常、一人の著者が三人称の醒めたようすでこの写実的物語を物語る。そこで示されるのは、その文化の成員の活動状況、その文化の種々の特徴の理論的適用範囲、そしてたいていの場合、そもそもこの作品が企画されたのかについての煮え切らない説明である。[Van Maanen 1988=1999: 89]

 こう説明されても、もう一つ分からないかもしれませんが、こういう文体による説明が入らない論文、著作というのは、ほとんどありえないように思われます。いわゆる「調査概要」にあたる部分の記述はこういうものになります。

 大体、基本的な事実関係を説明する文章はこういうものにならざるをえません。研究成果について読んでもらう前提となる知識を整理した文章は、その後に読ませようという文章で扱う事例全般に当てはまるものでないといけないので、一歩引いた視点から一般化したことを書くことになります。

 また、考察や結論部分もこのような文体になるはずです。考察や結論は「分かったこと」をある程度の普遍性を持つものとして提示する部分だからです。

 次の告白体の物語というのは、そのような一般化、普遍化した説明について、「ああは言ったものの、実はこうだった」と話を付け加えるような文章です。

告白体はしばしば、リアリズムの約束事のうち、とても厄介な代物だと判明した部分に対する反応として出てくる。あるいは、多くのフィールドワーカーが自分たちの仕事の科学的な地位に向けて投げかけられる中傷に対して過敏に反応し、告白体の物語が生まれ出る場合もある。[前掲: 133]

 これも、記述を進めていけば、そういう打ち明け話をする必要が出てくることもあるだろうなあという感じです。写実的物語に徹して書くには無理がある場合、こうした「言いわけ」ないし、打ち明け話をする必要が出てくるのでしょう。

 では、最後の印象派の物語はどのようなものかというと、自分がかつて体験した事を、あたかもリアルタイムで起こっているかのように回想して書かれたものです。

印象派の物語は劇的な回想である。出来事は、それが起こったとされる順番に従って大雑把に一つ一つ語られる。その際、記憶に残っている出来事に付随する、こまごましたつまらない事柄もみな一緒に語られる。読者を未知の物語に引きずり込み、フィールドワーカーが見たり、聞いたり、感じたりしたものとできるだけ同じように、読者が見たり、聞いたり、感じたりできるようにしてやるのが、その狙いである。[前掲: 176]

 これらの文体は、前回まで見てきた作品にも見られたものだったと思います。

 たとえば『ストリート・コーナー・ソサエティ』の文体は基本的には写実的物語で、付録として後年付け加えられた部分は告白体の物語です。『ただ波に乗る』のオートエスノグラフィーは、全体として告白体の物語そのものかもしれません。『残響のハーレム』で、フィールドにかかわる場面をまじえて語る部分などは、印象派の物語に相当するでしょう。『介助現場の社会学』で具体的な事例が提示される際は、基本的に印象派の物語になっています。

 『大衆演劇への旅』は、日記部分が印象派の物語で、註釈部分は写実的物語と告白体の物語として切り分けて書かれているという見方もできますが、日記部分を単純に印象派の物語とは言えないように思います。

 第4回で述べたように、この本は「日記」のように書かれていますが、実際に当時書かれたままの日記ではありません。「当時書かれたままの日記」と錯覚させるよう巧妙に仕掛けられています。

 また、日記を書き上げられたその都度その都度を「リアルタイム」でとらえたような記述になっていますが、日記とは、必ずしもリアルタイムの出来事を再現するように書かれるものではありません。

 ふつう、この三つの物語は、一つの論文、一冊の著作の中で、一つの筋を作るために組み合わされるものだと思います。写実的物語は別として、告白体の物語、印象派の物語だけで「読ませる」のは難しいと思います。『大衆演劇への旅』も、本文と切り分けられているとはいえ、本として成り立たせるために「註釈」を必要としています。

 最後の章では、批判的物語、形式主義的物語、文学的物語、ジョイント形式の物語など、さらにいくつかの物語の存在が示唆されています。しかし、これらを文体として語るのは少し無理があるように思われます。それぞれが独立した章になっておらず、まとめて扱われているのも、その無理があるゆえでしょう。

 ヴァン=マーネンのこの本は、自明のものとして使い分けられている文体を強調して、著者の作為の存在をあぶり出したものだと言えるでしょう。エスノグラフィーというのは、客観的な事実を記述しているのではなく、あれこれ文体を使い分けることで、リアリティを演出し、普遍性があるように感じさせているだけなのだというわけです。

フィールドワーカーが追求するテクスト化の形式、著述の形式を検証することで私が意図したのは、エスノグラフィーのデスクワークやオフィスワークがフィールドワークに劣らず重要であるという事実に注意を喚起することであった。己の仕事の中で書き方の作法に対してフィールドワーカーがとってきた沈黙や眠たげな無関心は、この数年で完全に打ち砕かれた。今や、自己満足に浸りきり、この上なく幸福だった古き良き時代に戻る事はできない。[前掲: 234-235]

 この問題提起は、前回出てきた『文化を書く Writing Culture』ショックと関係するものです。そして、こういった流れの中で反省を迫られて試みられてきた手法の一つがオートエスノグラフィーであるという話でした。

■文体が問題なのか

 ヴァン=マーネンは文体論という形で、エスノグラフィーを書く技術を論じているわけですが、はたして問題は文体なのでしょうか。

 この答えはすでに出ています。

 ヴァン=マーネンのフィールドワークの物語の議論は、フィールドワーカーの自己の位置付けの問題として理解した方が分かりやすいはずです。三つの物語は、語り手としてのフィールドワーカーが、どの時点の自分の目線から、どの時点の自分の経験を語っているのかが異なるのです。

 写実的物語とは、フィールドワーカーが出てこない、抽象化された超時間的な記述です。時間の流れや出来事の文脈が捨象され、事実を補強するものとして断片的に事例が取り上げられるので、「どの時点での自分の経験であるか」に意味がなくなっているので、それに対応して出てくる「どの時点の自分の目線であるか」を定める必要がなくなっています。

 告白体の物語とは、現在から過去を反省的に振り返る自己です。これはいろんなタイミングがあると思います。本や論文を刊行して、しばらく経ってから「あの時はああ言ったけど、実は……」と語り始めることもあれば、その本、その論文の中で後日談を付け加えて、事例の解釈を広げるといったこともあるでしょう。

 印象派の物語とは、リアルタイムで物事を経験する自己を再現したものでした。なぜそのようなことをするのかと言えば、変化のプロセスに注目するためです。後から考えれば誤った判断も、その時の状況ではそうせざるをえないといったことがあります。そのような事情を考察するためには、リアルタイムで物事を経験する自己を再現する必要があります。

 また、そうした事後的な考察とは、要するに告白体の物語のことなので、両者は対応する関係にあるはずです。

 文体とは、何かを説明しようとして記述した結果として出てくるものです。何かごまかそうとすれば、それもまた文体に現れるものだし、さらには、先回りしてごまかしがごまかしに見えないような書き方をしようとするものです。

 ヴァン=マーネンの文体論は「フィールドワーカーはこんなごまかしをしている!」と半ば自虐的な告発をしているようなものです。どう書いてもどこかでごまかしが混じってしまうことを嘆くようなそぶりをしながら、実は開き直っているし、開き直っているととられないように、もっともらしくごまかした書き方をしているので、よく分からない文章になっています。

 この本ではエスノグラフィーで用いられる文体の種類やそれぞれの効果を論じていますが、そういった文体をエスノグラフィーにどう活用していくかという話にはなっていません。それどころか、その「欺瞞」を皮肉混じりに暴露しているだけなので、そんなものをまともに受け止めればエスノグラフィーが書けなくなってしまうでしょう。

 そういう意味では、この本は本当に「役に立たない」ばかりか、初学者にとっては「有害」な本かもしれません。

■社会学と人類学のあいだ

 ところで、「有害」だと言ったり、「役に立たなかった」本に対して、私はなぜ「これは面白い!」と興奮したのでしょうか。今回読み直してみて、おそらく社会学と人類学とで異なるフィールドワークの事情に触れた第2章を「面白い」と感じたのだろうということに気付きました。

 私は学部学生の時に、社会学のゼミから人類学のゼミに移った経験があります。移った理由はフィールドワークをするためでした。

 社会学でもフィールドワークはできるし、エスノグラフィーを志向することはできます。しかし、私が行っていた大学の学部の社会学ゼミはそういうタイプのゼミではありませんでした。一方、人類学のゼミとなると、フィールドワーク、それも参与観察をすることが大前提でした。

 このようなゼミのタイプという問題もありましたが、それ以前に社会学と人類学とではフィールドワークに置いている価値の比重がまったく異なります。

 たとえば、ヴァン=マーネンはフィールドワークによって文化を理解しようとする信念の体系は「栄光の歴史を持っている」[前掲: 38]と述べています。

この歴史に対するアプローチの方法は何通りか考えられるだろう。私が選んだ方法は次のようなものだ。すなわち、フィールドワークに関する概念はまず人類学に、そして後になって社会学に現れたのであるから、まず、両学問領域におけるフィールドワーク観を二つの相対的に別々の流れとして扱い、最後に両者を融合させるというやり方である。[前掲: 39]

 ここではまだ何も言っていないに等しいのですが、この後にどんな議論が展開するのだろうと考えるだけでドキドキします。

 社会学から人類学のゼミに移ったといっても、私は人類学がやりたかったわけではありませんでした。人類学者がこだわっているフィールドワークという世界からものを考えられるようになりたかったのです。

 学部時代に人類学ゼミでフィールドワークをはじめた私は、大学院に進学した後もフィールドワークにこだわり続けるのですが、選んだのは社会学でした。

 フィールドワークそのものを突きつめていくのであれば、人類学を選んだ方がいいだろうことは分かりきっていました。しかし、私が理解したいと思っているようなことを表現できるのは人類学ではないだろうということも感じていました。人類学的なフィールドワークにこだわって社会学に進めば苦労することは分かっていたのです。しかし、自分の進むべきと感ずる方向が、わずかながらでもそちらを向いているなら仕方がありません。

 社会学の大学院に進んでみると、やはりフィールドワークへのこだわりに温度差を感じて、一人もどかしい思いを抱えていました。私と同じような状況にある人がもっといてもいいようなものですが、結局、これまでにこういったことで分かり合えたと思えたことがありません。

 そこをダイレクトに語ってくれたのが、この本の第2章だったのだから、面白くないわけがありません。たとえば、人類学のフィールドワークについて、ヴァン=マーネンは次のように書いています。

人類学においては、フィールドワークこそが唯一この学問を他の社会科学から区別するものである。あるエキゾチックな文化社会(エキゾチックとは、つまり、フィールドワーカーにとってのことだが)に長期間滞在すること。それが、新参者を聖別し人類学の領域に導き入れるための主要な儀式、いわば通過儀礼なのである。[前掲: 39-40]

 極端なことを言えば、人類学者にとってフィールドワークは存在証明のようなものなのです。それくらい当たり前のことだし、大切なものなのですが、こんなことを力説すれば、いい歳して青臭いことを言うと、社会学者からは苦笑されてしまうでしょう。

 一方で「社会学者もまた自分たちのフィールドワークの権威ある歴史を持っており、その起源について語っている」[前掲: 44]とヴァン=マーネンは続けます。社会学のフィールドワークの起源とは、近代化した都市における貧困や社会問題の研究です。ホワイトの『ストリート・コーナー・ソサエティ』もまさに、そのような研究でした。

しかしながら、社会学においては、エスノグラフィーの方法としてのフィールドワークに適した場所は小さい。フィールドワーカーはシカゴ学派からぽつぽつと出ては来るのだが、その目的と方法の広まり方は相も変わらず不均衡でしかも散発的である。人類学では、フィールドワークはエスノグラフィーの方法として著名な地位をすでに手に入れている。これに対し、社会学においては、地位の獲得までもう一歩というところに辿り着いたためしすらない。[前掲: 49-50]

 これくらい言ってもらってようやく慰められる気がします。そして、「その理由の一端は、二つの学問独特の社会的構造にある」[前掲: 50]として、社会学と人類学で異なる事情についての解説が続きます。

 まず説明されているのは、個々の文化の独自性を重視する人類学に対して、社会学は社会全体に当てはまるような「理論」を志向するので、「フィールド」という狭い領域しか扱えないフィールドワーカーは低く見られがちだということです。

 こういった志向の違いが出てくる原因は、フィールドと日常の間にある物理的な距離とも関係していると思われます。

社会学者は、概して、彼らの仕事の焦点を都市の脈絡に絞り込む。それは、文字通り我が家に近いコンテクストであり、そこには大変な思いをして習得しなければならない外国語もない。当の文化は、調査の開始時点から、少なくとも部分的には知られている。これに対し、無視できない本国送還の例がいくつかあるにもかかわらず、人類学者が今でも数多くの仕事をしている場所は、遠く離れた、半ば孤立した、小さな社会組織である。彼らはそうした場所で、長期にわたり(しばしば長い間隔をおいての再訪を含むこともある)研究対象の人々と密着した接触を、信頼関係によって結ばれた接触を続けるのである。[前掲: 51-52]

 要するに、読者に対するアピール力が人類学のフィールドと社会学のフィールドとでは段違いだし、アピールするために書かなければならないことの中身もまったく異なってくることになります。

社会学者は自分の所属する社会に囚われている以上、よく言って「あやふやな」権威しか持てない問題、したがって、絶えざる挑戦にさらされる問題について書かざるを得ない(学者からの、かつ、素人仲間からの挑戦)。インフォーマント、リサーチ・アドバイザー、友好的・敵対的な同僚、雑誌の編集者、名誉毀損を扱う弁護士、政府の権威筋、そして研究対象集団の中の疑い深い成員——これらすべての人々が、社会学者がその著作に表した社会的世界について、実にたくさんのことを知っているのである。[前掲: 54]

 とはいえ、社会学と人類学が同じフィールドやテーマを扱うことが増えてくるにつれ、そのような条件による両者の違いは薄れていき、意識すべきはエスノグラフィーのヴァリエーションであるというように、ヴァン=マーネンは見ているようです。

 他人からフィールドワークというやり方が高く見られようが低く見られようが関係なく、フィールドワーカー自身は、自分が明らかにしたいことのために、フィールドワークに邁進していれば良いのです。

 この後、この章の話題はエスノグラフィーの読者とはどのような人かという話になり、エスノグラフィーの「読ませ方」つまり、文体のテクニカルな議論につながっていきます。

■文体を論じることの意味

 私にとって、この本が面白かったのはここまででした。社会学と人類学とでは、フィールドワークに置いている価値の比重が違うし、それにはそれぞれの学問が対象とする世界の違いが関係していました。しかし、そういった条件は少しずつ崩れていっているし、重要なのはフィールドワーカー一人ひとりが、なぜそのフィールドにこだわるのか、そして、それをどのように伝えるのかといったことなのです。

 ところが、この本はこれ以降、エスノグラフィーの中で用いられている文体という「どうでもいい話」になっていきます。文体を論じることそのものは面白い試みだと思いますが、そのバリエーションを並べることにどれほどの意味があるのでしょうか。

 文体を論じるなら、その文体を導き出した背後にある著者の狙いはどのようなものなのか、そして、その文体を用いる効果はどのようなものなのかまで踏み込む必要があります。むしろ、掘り下げるべきは著者の狙いの部分だったと思います。

 その文体を用いなければ語れないことがあるから、文体を使い分けるのです。読者を煙に巻いたり、都合の悪いことをごまかすためではありません。

 そういう議論にならなかったこと自体に、この本が書かれた当時の問題状況が反映されているし、実はフィールドワークをめぐる状況は、現在も同じ問題を抱え続けているのかもしれません。

■「日雇い労働者のつくりかた」形式の文体

 今回のはじめの辺りで、私は「書きながらでなければうまく考えられない」という話をしました。そして、このコンテンツ自体、自分のそういう特性を利用して書き進められていることも明かしています。

 こういう書き方のことを、私は「日雇い労働者のつくりかた」形式と呼ぶことにしています。「日雇い労働者のつくりかた」というのは、友人が主催していたwebマガジンにかつて連載していたコンテンツです。そのwebマガジンそのものは現在は閉鎖されていますが、私のコンテンツの部分だけはファイルをもらって再現しています(参考「日雇い労働者のつくりかた」)。

 「フィールドワーク論」が「日雇い労働者のつくりかた」形式で書かれていることは、序文でも触れています。大学院時代の私の研究テーマは建設日雇い労働者が働く「飯場」をフィールドにしたものでした。

 フィールドワークを元にした研究成果をどのようにまとめたらいいのか、まったく分からなかった当時の私がまずやってみたのは、鵜飼さんの『大衆演劇への旅』を真似した日記形式の「体験記」でした(参考「飯場日記」)。次に、この日記だけでは論文にならないので、何か論文のヒントになるような「こぼれ話」のまとめを作ろうと思って書いたのが「日雇い労働者のつくりかた」です。

 これは要するに、建設日雇い労働に興味を持って「自分もやってみたい」という人を想定した「日雇い入門」です。建設日雇い労働について何も知らない人を想定して、仕事に行く前にどんな準備をしたらいいか、どうやって仕事を見つけるのか、現場ではどんなことに気をつけたらいいのか——といったことを解説した「ハウツーもの」です。

 当時のこのコンテンツそのものは論文を書く役には立ちませんでした。しかし、これはこれで面白いものになったし、この書き方は、自分の中から思いもよらないものを引き出してくれる可能性も感じました。

 「日雇い労働者のつくりかた」で扱っていることは、ごくごく当たり前のことです。建設日雇い労働者として働いている人なら当たり前に知っていることを説明しているだけなので、難しいことを考える必要はありません。細かい文章の構成などは考えずに、「今回はこんなことを書いてみるか」という方針だけを決めて、後は書きながら考えていました。

 「書きながら考えた」文章というのは、要するに「リアルタイムを再現した文体」なのです。書きながら考えているわけだから、書いている時点では「リアルタイム」の思考だし、残された文章はそのまま「リアルタイムの思考を再現した文章」になります。

 「書きながら考えている文章」には、理解につながる気づきが導かれる過程もそのまま書き残されます。その気づきは、まずは「思いつき」でしかないし、よく言って「仮説」にすぎません。その「思いつき」を検証していくうちに、少しずつ確かなものが見えてきます。

 漫然と考えていては見落としてしまう気づきに敏感になり、その気づきを慎重に吟味していけるところに、「書きながら考える」ことの効用があります。最初からこうだと結論を決めてから書き始めてしまうと、このような効用は得られません。

 こういう文章を書く時には「ハウツーもの」の文体が適しているのです。「日雇い労働者のつくりかた」形式の文章では、私は「この分野については何もかも分かっている」ような態度で語りはじめます。しかし、実際には書いてみなければ本人にも細かなところはよく分かっていないのです。

 この文体の「自己」の位置付けは独特です。書いている時には手探りで考えているリアルタイムの自己そのものです。しかし、ある気づきを得た一瞬後には、「すでに過去になった自分」の着想を振り返って吟味している、その時点でのリアルタイムの自己が記述に現れてきます。

 「何を書きたいのか」によって、どこに自己を位置付けるかは重要な意味を持ちます。そして、どこに自己を位置付けるかによって、独特の意味と構造を持った文体が必然的に導き出されるものなのです。

 読者にとっては、文章というのは必ず誰かが過去のある時点で書き終えたものです。リアルタイムで書かれるものを同時に読むといったことは原理的にあり得ないわけです。それでも「リアルタイムの理解のプロセス」を読むことはできるし、そのように書かれたものだからこそ理解できることがあります。

 文体というのは、それ自体独特の意味や構造を持っており、その効用を論ずることもできます。しかし、そのような意味や構造を作り出すのは書き手の目的意識であることを切り落として考えていては、十分な理解をすることはできないでしょう。1)。(2023年4月7日(金)更新)

参考文献

佐藤郁哉、2002『フィールドワークの技法——問いを育てる、仮説をきたえる』新曜社。

Van Maanen, J., 1988, Tales from Field: on Writing Ethnography, University of Chicago Press. (森川渉訳、1999『フィールドワークの物語——エスノグラフィーの文章作法』現代書館)

第8回 『方法としてのフィールドノート』を読む

 

■別に読まなくていい今回の独り言2)

1)最後の節だけ全面的に書き直した。当たり前だけど、分かっていることでも、素面で書かないとダメだな……。

2)「別に読まなくていい今回の独り言」というコーナーを設けていること自体が、「日雇い労働者のつくりかた」形式の構造を匂わすための「仕掛け」にほかならない。註釈に註釈番号付けるとか、ふつうあり得ない。