2025年7月9日(水)
原因はどうあれ、結果ははっきりしている。しかし、原因が分からないと結果を受け止められないということがある。それなら仮の原因を設定することで結果にうまく対処できるようになる。しかし、その原因は仮のものであることを見失うと対処も歪んでしまう。
2025年7月8日(木)
そうか、脳科学や進化論のアプローチが野宿者運動のラディカルなアプローチと似ているのかもしれない。存在肯定の理念は正しいが、その正しさはあらかじめ証明されていない。外れているかもしれないリスクを承知で踏み込まなければならないようなところがある。
アプローチそのものに真理は宿っているし、論理的帰結を示すことはできても、常に結末を確かめられない不透明さが残る。
あの議論の中ではマニングがブラックボックスだった。だからマニングを仕込まなければならなかった理由の理解は、それ自体、「議論の背景にそもそも説明のつかないブラックボックスがあり、その中身が分かった」という話でないといけなかったんだな。
それなのに、単に「議論の背景にもブラックボックスがあって、そのブラックボックスを抱えたまま書かなければならないから、ああいう書き方になった」という事情を明かしているだけになってしまっている。
では、議論の背後にあったブラックボックスとは何だったのかと言えば、「野宿者の存在肯定の理念を追求する野宿者運動が理念を振りかざして運動の仲間を傷つけてしまう理由」だった。そしてそれは脳科学的なアプローチと似たジレンマに陥ったがゆえに起きたことだった。
だからブラックボックスとしてマニングを仕込んだのは、まったく的外れということはなかった。ブラックボックスを抱えたまま答えを出すことは、いずれブラックボックスの中身を解明するためにも必要なやり方であるということだ。
2025年7月7日(月)
その結末はどうなの?
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なんかおかしくないか?
2025年7月5日(土)
まちがった選択でも、選ばなければ分からないことはある。まちがえなければ気付けないこともある。
2025年7月2日(水)
赦しか……。
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自分がしんどいから?
2025年6月30日(月)
うーん、しんどい。時間が足りないよ。
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先週は先週で忙しかった。決して怠けているわけではない。
2025年6月29日(日)
ここに来て選択肢なんてないよな。
2025年6月27日(金)
自分の中から言葉を引っ張り出すのに時間がかかりそうだ。
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寄せ場のフードセキュリティ。このフレーズから何を連想するか。都市下層の世界。都市下層の世界の食の問題を扱うのだろうなと思うし、セキュリティという以上、日常的な食自体が危機に瀕していることを暗に想定しているのであろうことがうかがえる。
人が生きて行くために食べることは欠かせない。しかし、お金がなければ食にありつくことができない。食にありつけないことは、職にありつけないことの帰結でもある。寄せ場の日雇い労働者は潜在的なホームレス状態にあり、ホームレスとは失業の問題であった。
2025年現在、労働市場としての寄せ場は衰退を続けており、釜ヶ崎では行政からの働きかけを受けたまちづくりが進んでいる。生活保護の積極的な運用と路上からの排除政策により、ホームレス数は大きく減少している。
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都市下層とは生活構造論によって作り出された操作的な概念だとすれば、問題としているのはこの社会にに排除の圧力が働き続けていることを示すためだ。
中川清が索出した戦前の都市下層は下層社会を喪失してこの社会の中に紛れて行く。しかし、中川が切り離した単身者こそがまた下層社会を成し、現代日本の都市下層として結実する。
中川は社会に紛れていく都市下層が、下層社会の共同性を失っていくことを強調している。しかし、その共同性の実態に触れようとはしない。それこそが排除に抗する力でもあるのに。
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現代日本の都市下層としてとらえられた寄せ場労働者は、寄せ場という下層社会の解体とともに消えさり、寄り場を失った都市下層はまた社会に紛れていきつつある。
しかし、寄せ場はまだ無くなってはいないし、野宿者の姿が無くなったこともない。この端境期にある都市下層に働く排除の圧力をとらえるためには、その排除に抗う共同性の実体をとらえる必要がある。そして、その抗いは食にかかわってくるはずである。
ゆえに、本報告では、寄せ場と野宿の生活世界における食にまつわる相互行為と意味付けを追っていきたい。
2025年6月26日(木)
誰もが何もしない言いわけをする。大義がなければ何もできないのか。
2025年6月22日(日)
というか、このスケジュールはしんどいよ。無理だよ。
2025年6月20日(金)
何かつかめそうでつかめない。
2025年6月16日(月)
うーん、なんか気持ちが落ち着かない。
2025年6月13日(金)
どいつもこいつもでたらめやないか……。
それが分かるようなデータをふつう保存していない。
どんなに一生懸命やっていても、他人がどれほどいいかげんでも、自分自身がでたらめでいい理由にはならない。
2025年6月12日(木)
作業してたらどうしても目に入ってきてしまう。
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食にまつわるエピソードで使えそうなものは案外少ないのか。
2025年6月9日(月)
過ちを認められなければ正解に到達することはできない。
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なんか酷い話だったなあ。
2025年6月6日(金)
僕に何か力があるとすれば、それは僕の力ではない。誰かから、何かから授かったものであるということだ。
知りえないものもあるのか。語りえないものがあるように。
2025年6月4日(水)
うーん、しんどい。
2025年5月23日(金)
どうしてこんなにやる気が出ないのかな。
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僕たちはどちらも答えを持っていない。どちらも不十分なのだと思う。僕らのどちらも、今持っているものでは正しい答えを出せない。
2025年5月19日(月)
自分で納得できるようになるまでの時間がかかるんだな。
2025年5月13日(火)
心配するほどでもないことを心配しすぎない。不安になっても、思い悩まずに必要な範囲での準備をすればいい。むずかしいことはない。
2025年5月10日(土)
心配しなくてもすべてのことはうまくいく。気に病めば気に病んだだけ苦しみが増えるだけのこと。
避けられない苦しみもある。しかしそれは息切れほどのものだ。
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無理をしなくても力は引き寄せられる。道の上に用意されているものを先取りすることはできない。
2025年5月8日(木)
最先端のものを追っていなければ評価されないのであれば、研究の蓄積には何の意味もないだろう。
2025年5月5日(月)
まずはやるべきことを整理しよう。
2025年5月3日(土)
社会で起きていることへの自然な関心の高まりなんてなかったよな。
新聞の読み方、ニュース番組の見方なんて分からない。身近なことに感じられない。
今でこそ、ある程度の距離感を持って受け止めてはいるものの、それは十分な把握は不可能だと見限った上でのことだ。
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道は選べないのかもしれない。
道が人を選んでいるのだとしたら、問われるのはそこに意志を示されるか。
2025年5月1日(木)
相変わらず何もやる気がしない。
少し落ち着いてどうしたいのか考えてみよう。
2025年4月29日(火)
やばいくらい何もやる気がしない。
現実逃避して本を読みたくもならない。
2025年4月27日(日)
昨夜は何か更新しようとしてし忘れてしまった。
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そうか、日記形式の物語があるなら、フィールド日記を元にした論文もすでに物語なのか。
2025年4月26日(土)
2025年4月21日(月)
このタイミングで虚しさに囚われるのは必然だろうか。
どちらにせよ、受け止めつつやり過ごすしかないのだろうけど。
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花粉症じゃないなと思い切ったのは、まだ先週の話だった。
まだまだ新学期でもある。
2025年4月17日(木)
これは疲れる。
2025年4月15日(火)
もう花粉症ではないなあ。まだ一週間しか経っていない。しばらくしんどい時期が続くのかな。
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意識魂というのは、後でも説明しますが、一口で言うと、「人間は努力する限り迷うものだ」というゲーテの『ファウスト』の言葉に代表されるように、努力し、迷って生きていることに生きがいを感じる魂のことです。[高橋巌、1990『シュタイナー教育を語る――気質と年齢に応じた教育』角川選書: p.153]
2025年4月14日(月)
なんだろう、この気持ち悪さ。
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まだ何か苦しんでいることがあるのか。
2025年4月12日(土)
これまで踏み間違えて無理をしてきたことがあるなら、取り戻していくにもしばらく痛みがともなうこともあるか。
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マスコミは出来事を伝えなければならない。発信された以上扱わないわけにもいかない。そこに付け込んで世論を操作しようという企みを避けられない。
であれば、マスメディアとはそのような道具だし、マスコミはその縛りを避けられないと受け手が心得ておかねばならない。しかし、この単純なことが理解されていないわけだ。そこにまた付け込まれているというのに。
2025年4月6日(日)
疲れるとネガティブになるから、疲れないようにしたい。
2025年4月4日(金)
つまり、人柱として殺されるための時間だったのか。
2025年4月3日(木)
うーん、ようやくとっかかりを見つけたというところか。
自己を分析対象にするためには、状況の変化の中に位置付ける必要があるというわけだ。
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人柱だなこれは。フィールドワーカーが自らを人柱にして記述を可能にしている。
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2、3日前に考えていたことは完全に的外れだったなあ。
僕はやっぱりフィールドワーカーとして妥協できないんだな。
2025年4月2日(水)
ああ、そうか。研究会で報告しておきたかったのは、嫌な思いをするためだったのか。
すんなり受け入れられることはない、理解されることはない。それでもそれを呈示する姿勢を問題としている。
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